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放蕩息子

そんなわけで最近、ヘンリ・ナウエンの「放蕩息子」を読み進めているオレさまですが、ぽまいらはいかが「帰郷」への道にさ迷っていやがりますか。




ヘンリ・ナエウン。キリスト教的霊性を追求したカソリック司祭、作家ってかんじだろうか。



彼のもっとも評価が高いとされるのが、この放蕩息子。



ダスカロスの「キリストのたとえ話」にも登場し、神の愛の深さとオレさまたちがこの<世界>で生きることの本質を示しているともされる聖書の放蕩息子の話。オレさまももっとも好きな話のひとつだ。


この話を自分の人生に照らし、霊的探求、そしてキリスト者としての召命に忠実にあろうとするナウエンの霊的葛藤とともに描かれている。



ちなみにこんな話。



ルカによる福音書 第15章11~24節

 また、イエスは言われた。



ある人に息子が二人いた。

弟の方が父親に、「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩(ほうとう)の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉(ききん)が起こって、彼は食べるにも困り始めた。


それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。


そこで、彼は我(われ)に返って言った。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』と。」


そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐(あわ)れに思い、走り寄って首を抱き、接吻(せっぷん)した。


息子は言った。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」


しかし、父親は僕(しもべ)たちに言った。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」そして、祝宴(しゅくえん)を始めた。


ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです』


兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊(こやぎ)一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦(しょうふ)どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠(ほふ)っておやりになる。」


すると、父親は言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」





さてさて。この話は、神の愛の深さを示す話としてよく語られる。イエスは貧しきものを愛したように、出来の良い兄貴がマジメでいることよりも、放蕩の限りを尽くしたようなバカ息子が立ち直るほうをより喜ぶ。



そうした神の愛の深さについてはいくらでも語られたところなので今更オレさまは触れないが、このナウエンも著書で語るところだが、より気になるのは、兄貴のほうだ。この放蕩息子に自分をなぞらえ、神の愛へと帰依とようとするのは誰にでもできる。



しかし、父の教えに忠実でずっと応えつづけ、勤勉に、真面目に精励してきた兄。ずっと父のもとに在り、父を支えたきた。しかし、愚弟が財産を生前分与させ(これは当時の文化的には父に死ねといってるのに等しい反逆行為)、さらに身上を食いつぶしてでもどってきたにもかかわらず、大喜びで抱擁して赦し、受け止め、祝宴をひらいいて迎えた。



その様を兄は「自分ずっと父仕えてきたのに、こんなにしてもらったことはない」と不平不満をもって眺めることになる。



「自分は、ずっと自分のことを弟のほうだと思ってきた。しかし、実は兄だった」



とナウエンは気づく。それなりに裕福な家庭の長男として生まれ、親の期待に応えて神学を深めて司祭になり、ずっとマジメに生きてきた。バカな享楽に興じる友人知人を横目にしつつ。



しかし、彼らへの不平不満が渦巻いていたと気づいたとき、世界が変わった。自分は、まさに兄の側だったのだ。



もちろんこの兄に対しても父は、「わたしのものはすべておまえのものだったではないか」と言っている。弟と同じように、父の愛は注がれていたのだ。



だが、兄としての規律に縛られ、マジメに生きてきた兄には、バカに自由に生きた弟への羨望があったのだ。うずまく不平不満がずっと心に巣食っていたのだ。



「自分はまさにこの兄だった」ことに気づいてしまった者にとって、これは辛い。弟が<帰郷>するほうが、ある意味簡単だ。弟はその身ですべてを失った経験をした。それゆえ、「父の家へ帰ろう」とカラダを通して思うことができた。



環境によって学ぶことができた。



だが、兄はずっと父のもとにいたのだ。ずっと父のもとにいたにもかかわらず、本当に<帰郷>への道につかなければならない。闇に落ちたものにとって光を理解するのはある意味簡単だ。だが、光の中に居続けたものに、光の真価がわかるだろうか?



この放蕩息子のシーンを描いたレンブラントの絵には、弟を抱擁する父と、それをやや離れた場所から立ち尽くして見つめる兄の姿もある。兄は父と同じように、立派な服装で、父と同じように描かれている。しかし、彼は愛を表現できずに、立ち尽くしている。



弟よりも、兄こそ困難な霊的課題に直面してしまったといえるだろう。



人間的にマジメに、社会的には立派に。そうして生きている自覚のある者が、自分は「この兄だ」と気づくこと、不平不満がその胸に渦巻いていることに気づくことは、難しい。気づいても、認めることは困難だ。



だが、もし気づくことができたら、絶望が伴うような困難な道だが、価値ある霊的チャレンジがそこにあることを知るだろう。それは、<帰郷>へと続く道でもある。



世の中のうかれぽんちなスピ系セミナーはそうした道へと導くことはしねぇが、そんな道へと踏み出していくことが、ほんとのスピリチュアルな道だとオレさまは思う。



スピリチュアルな道は、いつも、自分がもっとも見たくない自分の発見から始まるのだ。



ま。そんな話だ。






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「そうは言っても、オレさまは弟タイプだとは思うのだけどw」なんて思ったら、ぽちっとな♪


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  • User Avatar ポチ さんより(21/10/02)
    ありがとうございます。 >基本的に「視覚的イメージ」を形成し、 >観察することに集中するんだよ。 >その結果、 >色んな崇高な魂の衝動や意味がわきあがってくる。 観察への集中、確かにここは欠けてるようです。 また、その結果得られた衝動や意味も、 祈る時は捨てて観察に集中するようにしてみます。 ありがとうございました。
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  • User Avatar 加藤 夏樹 さんより(21/10/01)
    ポチ ども、夏樹です。 多分だけど、意味をイメージしすぎているんじゃないかな。 植物の光を求める衝動をキリストの父なる神への衝動にかさねて7輪の薔薇をイメージする、 十字架はもちろん贖罪の罪=私の罪で託して背負い、 十字架と薔薇の間にある私を含めた現存在の全体をイメージしてるのですが何かが違う気がいつもしてます。 とくにこのあたり。 こういう崇高なイメージは結果湧いてくるものであって、 視覚化においては 基本的に「視覚的イメージ」を形成し、 観察することに集中するんだよ。 その結果、 色んな崇高な魂の衝動や意味がわきあがってくる。 最初からそういうイメージをもって 挑むもんでもないんだ。 今度は映画を観るように 視覚的イメージだけに集中してみなよ。
    » ルドルフ・シュタイナーの薔薇十字瞑想について
  • User Avatar ポチ さんより(21/10/01)
    なつきさん こんばんは 薔薇十字の瞑想の時の最後の薔薇十字の表象の時に、上手くいきません。 植物の光を求める衝動をキリストの父なる神への衝動にかさねて7輪の薔薇をイメージする、 十字架はもちろん贖罪の罪=私の罪で託して背負い、 十字架と薔薇の間にある私を含めた現存在の全体をイメージしてるのですが何かが違う気がいつもしてます。 どこがダメだと思いますか?
    » ルドルフ・シュタイナーの薔薇十字瞑想について
  • User Avatar 加藤 夏樹 さんより(21/09/17)
    4年目さ。
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