スピリチュアルとは何か。そして神とは何か。本気で学ぶための講座やメルマガも運営しています。

天国への5つの黄金の鍵-観察について

はい、どーもー。月光のころの鬼束ちひろがもはや永遠に失われて涙目のぼくちゃんが通りますよー。w



いやはや。鬼束のあの劣化ときたらもう・・・。どっかのサタニストのような風貌へ・・・orz…



それはさておき。



神秘学徒が鍛えるべき項目の1つ。「観察力」。



天上へと至る5つの黄金の鍵とダスカロスも言う項目の一つだ。
(※他の4つは、思考、内省、視覚化、瞑想)



何度か取り上げたけれど、なぜ「観察」ということは、必要なのだろう。



別にスピリチュアルなことを追求せずとも、これは一般的にいってもぜひとも磨くべきものなんだ。



極論すると、この「観察力」を高めていくだけで、人は想像もつかなかったほど、幸せに、そして美しい神秘に包まれた人生を歩むようになるんだ。



たとえば、葉っぱ一枚を観察するだけで、深く思考し、集中することで、人は高き世界への真理へと至る。いのちの神秘に触れ、理解していくことができる。



するとどうだろう。そのとき世界は変わる。



毎日見ていたありふれた街。通勤途上の街路樹。すれ違う人々。



人が、自然が、いまそこにある神秘。毎日毎日同じと思っていても、実はまったく異なるすべて。



毎日が驚きと興奮と冒険に満ちたものになっていく。



いつも同じ、家族、パートナー、友人たち。



彼らと目を合わせ、言葉を交わし、触れ合うことができる。



それは、数え切れないほどの奇跡が幾重にも重なって、いまこの場に出現している、途方もない神的な奇跡なのだと実感できる。



いま生きて、ここに在るということの言葉では言い合わされない喜びと畏敬の念に全身が満たされるのだ。



たとえば、犬や猫が好きで、ペットとして飼っている人。



たとえば、花や植物が好きで、育ている人。



ぽまいらは、本当に、目の前のいのちを見つめているか?



まったく気持ちをフラットにして、いま初めて、それらを目にしたと思って、改めて見つめ、観察するといい。



すると、絶対に、今までまったく知らなかった何かを一つは発見できる。



驚くことができる。感動することだって、できる。



生命とは、躍動だ。躍動とは、決して同じに静止してはいないのだから。



そんなことを毎日だって、体験できる。



たかが観察。されど、観察。



本気で取り組むと、「いかに自分が、日々を惰性で生き、すべてを分かった気になって多くを見過ごしていたのか」必ず実感できるだろう。



へんな話だが、ぽまいらは、今年散っていった桜の花びらを一枚一枚手にとって、その違いを比べたことがあるかい?



街路に咲いているツツジの花ひとつひとつを比べてみたことはあるか?



毎日見ているはずの花の花びらの枚数すら、知らない-。



それこそ、「いま・ここで」生きていない、死んだも同然の生というものだ。



そんな姿勢で、どうして「スピリチュアル」な世界を歩み、宇宙の神秘に踏み込むことができる?



いま、目の前に、大切な誰かがいるのなら。



その人の手をとり、目をあわせ、言葉を交わせる。



そのとき途方もない幸福を理解し、体感することができたなら、おまいは今、「本当に世界を見つめ」始めたといえる。



それが、スピリチュアルに生きる-ということの始まりなのさ。



ま。そんな話だ。








                     訂正 1  


「あたいも家族の顔、ガン見するわw」、というコトでぽちっとな。(藁


                        人気ブログランキングへ

関連記事

コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

CAPTCHA


特別講義

おすすめカテゴリー

MYブックマーク

最近のコメント

  • User Avatar ポチ さんより(21/10/02)
    ありがとうございます。 >基本的に「視覚的イメージ」を形成し、 >観察することに集中するんだよ。 >その結果、 >色んな崇高な魂の衝動や意味がわきあがってくる。 観察への集中、確かにここは欠けてるようです。 また、その結果得られた衝動や意味も、 祈る時は捨てて観察に集中するようにしてみます。 ありがとうございました。
    » ルドルフ・シュタイナーの薔薇十字瞑想について
  • User Avatar 加藤 夏樹 さんより(21/10/01)
    ポチ ども、夏樹です。 多分だけど、意味をイメージしすぎているんじゃないかな。 植物の光を求める衝動をキリストの父なる神への衝動にかさねて7輪の薔薇をイメージする、 十字架はもちろん贖罪の罪=私の罪で託して背負い、 十字架と薔薇の間にある私を含めた現存在の全体をイメージしてるのですが何かが違う気がいつもしてます。 とくにこのあたり。 こういう崇高なイメージは結果湧いてくるものであって、 視覚化においては 基本的に「視覚的イメージ」を形成し、 観察することに集中するんだよ。 その結果、 色んな崇高な魂の衝動や意味がわきあがってくる。 最初からそういうイメージをもって 挑むもんでもないんだ。 今度は映画を観るように 視覚的イメージだけに集中してみなよ。
    » ルドルフ・シュタイナーの薔薇十字瞑想について
  • User Avatar ポチ さんより(21/10/01)
    なつきさん こんばんは 薔薇十字の瞑想の時の最後の薔薇十字の表象の時に、上手くいきません。 植物の光を求める衝動をキリストの父なる神への衝動にかさねて7輪の薔薇をイメージする、 十字架はもちろん贖罪の罪=私の罪で託して背負い、 十字架と薔薇の間にある私を含めた現存在の全体をイメージしてるのですが何かが違う気がいつもしてます。 どこがダメだと思いますか?
    » ルドルフ・シュタイナーの薔薇十字瞑想について
  • User Avatar 加藤 夏樹 さんより(21/09/17)
    4年目さ。
    » この世に何を遺せるのか

ブログをメールで購読

メールアドレスを記入して購読すれば、更新をメールで受信できます。

RSS

twitter