“スピリチュアルとは何か”。その意味や方法論を探究するスピリチュアルブログ「魂の神秘学」―瞑想、瞑想方法、内省など多岐に渡って

【スピリチュアルな生き方】天の意を受けて生きるということ≪白いローブを纏う者≫

【ダスカロスの白いローブをまとう生き方についての記事の概要】

どうも。なつきちです。エブリデイ過労と戦ってます。

日本の過労を構造改革を掲げて衆院選に打って出たいです。

日本お疲れ様です新党を結成するので誰かスポンサードしてください。

さて。与太話はともかく。

今日は表題のとおり。ダスカロスを例にとりつつ、天の意にそって生きるとはといことを少し考えてみたい。

そして、白いローブをまとう「神秘家」という存在について少し記してみたい。

 

天の意志に沿うダスカロスのスピリチュアルな生き方

さて。天の意とは、霊的な課題となって本人の人生に現れる。

それは、おれが神秘家として敬愛してやまない、キリスト教神秘主義の系譜に連なる、あのダスカロスでも同様だった、という話から考えていきたい。

彼は晩年、約一年と少々、寝たきり的な生活を送った。

 


あれほど人を癒し、奉仕していた神秘家でさえも。ここでは書くことがてぎないが、彼はおおよそ、他の神秘家とは一線を画するほどの高みにある人であったというのに。天の前では、我々と等しい兄弟でもあったのだ。

 


今回は、こうした点を考えてみたい。

ちなみに今回の記事は、はダスカロスの弟子:ポール・スコルペン氏の著述を参考にしている。

 

 

神秘家ダスカロスとスピリチュアルな奉仕の道

ダスカロス(ギリシア語で先生の意味)と呼ばれた神秘家。彼ほど霊的にも能力的にも高みにあり、それでいて謙虚で、偉大な神秘家・ヒーラーをおれは知らない。

 

根源的な生命力、創造エーテルを用いるそのヒーリングは物理的に筋骨を癒し、背骨の歪みや欠陥を癒し、ときに末期の深刻な病をいやし、死の淵から救い上げ、それでいて本人は一切の謝礼を受け取らなかった。


まさに愛の人だった。


それでいて、彼は自分に信仰や敬意、名声が集まらないように、常に「ヒーリングをしてくれたのは、天の力だ。私は導管になったにすぎない。あなたを癒したのは神であり、イエスであり、マリアだ」といった趣旨のことを述べ、いつも背後にある神なる存在やそのことわりに注意が集まるようにしていた。

 


そしてどれほど目に見えてすごいヒーリングをなしたときでも、「本当に大切なヒーリングとは教えることなんだよ」と、エソテリックな教えを伝え、理解を手助けし、そのように生きることに従事し、終生その考えは変わらなかった。

 


だから彼はよく言ってたそうだ。教えによって真理へと人が目を向けること。つまり霊的成長こそが、彼の真の目的だった。ゆえに彼は、自分の教えを受けた者が、ヒンドゥー教徒でも仏教徒でもイスラム教徒でも関係なかった。ただ、自分の信仰を実践し、みながそれぞれの道で、同じ真理を受け取っていることに気付き、それぞれの歩みを真摯に続けること。それを目的として人を癒し、教え、導いた。だから、ダスカロスのルポを書いたアメリカの社会学者C・マルキデスが破門となったのも、ある意味当然だった。

 

その理由としては、マルキデスはダスカロスが認めなかったサークルの組織化(エレヴナ・インターナショナルのこと)を高弟であった「コスタス」とすすめてしまったことがまずあげられる。サークルではなく組織にしてしまうと、そこに権威性がうまれ、組織の上位者には権威や名誉が集まってしまう。そのようなことは決して認めなかった。それなのに、さもダスカロスが自分の後継者としてコスタスとエレヴナを認めたように「ウソ」を入れてしまった。

 

またなにより、そのルポの描き方が、「教え」を広めるというより、「ダスカロスという神秘家、すごいんだよ!」という描き方にいってしまったのだ。それでは「教え」(エソテリックな教えの体系のこと)ではなく、ダスカロスその人に人々の興味関心がいってしまう。その気持ちはわからないでもないが、それはダスカロスの望むものでは決してなかった。

 

にも拘わらず、彼はダスカロスの霊能力、過去世、さまざまな出来事などを描いていった。取材対象としてのダスカロス本人に焦点を当ててしまったんだな。とくにダスカロス本人が事前に承諾したわけではない、二巻三巻にその傾向は顕著だった。それはマルキデスにとって大きな失敗であり、ダスカロスにとっては誤算だった。

 

非常に豪胆でジョークを愛し、ユニークな性格であったにもかかわらず、こと霊的な教えに対しては厳格だったダスカロスは、このような過ちに限っては笑って許すことはなかった。深い悲しみの中、ダスカロスはマルキデスを破門とした。そして自分が出版をサポートした一巻以外、つまり二巻と三巻はヨーロッパでは出版差し止めという法廷での決着を見るに至った。


それほどに彼は、自分が幾つもの転生で研究し、練磨し、何より「天から預かり、携えていた教え」には自分にも他人にも、厳格だった。ただそれは、人が間違って導かれてしまわないためのに必要なことだった。その意味では、今回のようなダスカロスの人となりに焦点が当たるような、おれの記事もきっと不本意に違いない。


「私のことなんか書くくらいなら、もっと『教え』について書きなさい」


という声が聞こえてきそうだ。(笑)


さて、話を戻す。


そんな風に人々に奉仕する神秘家ダスカロスも、晩年期がくる頃、人生の残り時間が少ないことと体力の限界を感じたのか、教えを残すべく、著述活動に入っていったんだ。そして彼は、数冊の本を残し、未邦訳のものも一部あるが、その多くが今、おれたちは読み、学ぶことができる。

 


その生涯―いや転生も含めると相当だが―かけて、彼が学び、研鑽していった体系を書籍などで学んでいけるというのは、すごい時代だと思う。もっとも、一人で学んでいくというのは大変だから、彼はサークルというシステムにおいて、インストラクターが引率し、小さなグループ単位で学んでいく学び方を推奨したわけだが。秘密主義的で、サークル間の移動も明確な理由がない限り禁止したし、大きな組織化などはもっての他だった。すべてに理由があったが、現代では理解されにくいかもしれないな。

 

 

スピリチュアルな道―ただ、人のために

さて、そんなダスカロスだが、生涯多くの人を癒し、導いたが、晩年、発作で倒れ、からだがほとんど動かなくなり、家族など近しい人のケアがなければ暮らせない時期があった。


生前、「自分が車いすや人の世話になるというのは避けたい」、とよく口にしていたそうだが、ついに自分がそうなってしまったのだ。それは、ひどく辛い経験だったに違いない。そしてダスカロスが倒れたとき、彼(とその弟子)のもとには世界中から手紙が届いたという。

 

安否を気遣うもの。年齢からもうダメなのか、と問うもの。あの偉大なヒーラーが、自分を癒せないのはなぜだろう、と率直に問うもの。


実に多くの手紙が届いたという。


そして弟子たちがダスカロスの許可のもと、彼等に返信としてメッセージを送ることにした。文面的には、「心配の声、ありがとう。いろいろと問いたいことはあると思うが、その問いは胸にえちにしまっておいてほしい」というのが前半の趣旨だった。

 

ここはダスカロスも同意した。しかし、「彼が回復するかここを去るかは、ダスカロス本人が決めることです。そっとしておいてね☆」という後半には強く抗議の意を示した。違うのだ。


ダスカロスはほとんどしゃべれず、うごかないカラダにムチうち、天を指さした。その意味するところを弟子たちは悟った。決して、「この世界を去るかどうか」は、ダスカロスの意志ではない。ここをいつ去るのか。それはダスカロス本人の意志ではなく、「天の意志」である、と気づいたのだ。


彼は、自分が倒れ、人の世話にならねばならぬという状態を体験すること。そこから学びがあるということに気付いていた。そして彼は天の意志に基づき、学び、レッスンを受けているのだ、と。彼は完全に天意にそい、従う人だった。「自分の意志で」ここを去るかどうかを決めるかなんて、彼には思いもよらぬことなのだ。それは与えられた命にたいして、傲慢であることなのだ。

 

彼が幼いころ、霊的指導者であったヨハネによって与えられた「七つの約束」の一つにあるように、「不平不満を言うことなく」、その状態を受け入れ、奉仕をする側ではなく、される側すらも学んだ。それがどんなに辛い学びであっても、「おまえはここでこんな体験をし、学び必要があるよ」と天に言われるならば、彼は喜んでその道を歩くのだ。そして彼のような、基本的には学びきり、輪廻を卒業しているレベルに達しているマスターでさえも、この世界に来ると、また新たなレッスンを携えるものなのだ。

 

 

スピリチュアルという謙虚な生き方と白いローブ

今、自分にも他者にも、「いのち」というものに対して、ここまで深く洞察し、謙虚でいられるものはどれだけいるだろう。


国も、社会も、あるいは個人的な人間関係でさえも。

人は自分にも他人にも、ひどく「傲慢」でいる。いることが、できる。ここでこうして、おれもエラそうに書いてはいるが、「彼らは何もわかっていないのです」と、キリストに憐れまれた側だろう。残念ながら。

 

そして分かっていない者たちは、あまつさえ、他者から奪い、傷つけ、ときには命さえも奪うという野蛮さが横行している。この世界は残酷だ。


残念ながら、この三次元世界は、そんな野蛮さ、暴力性もこみでの学びの世界だ。物理次元では、完全な平和も、愛も表現されることはきわめて難しいことであるに違いない。


それは本質的に、この次元では、相対性が存在し、その相克で学びを進める世界だからだ。それは仕方がない。


ただ尊いのは、そんな世界でなお、「正しい在り方」「真理とは何か」そうしたことを問い、追及し、自らの人生で表現し続けることに他ならない。

さて。こうしたブログを訪れる者の多くは、「スピリチュアルが好きだ」というものが多いだろう。関心がある、とか。人によっては追及、探求している者もいるだろう。


だが、どれだけ、人生を通じて、霊的歩みを表現する覚悟があるだろうか。そしてそこには白いローブという重い責任が伴ってくるのだ。

 

白いローブは誰もがまとう生き方である

白いローブの男たち。ただこちらはおれの作品「ラトニア・サーガ」(笑) イラストの「皇騎」。彼らはサイヤ人的な戦闘種族ですww


 

先人たちは、道を残した。その残された道を正しく歩むには、そんな覚悟もいる。遥かな過去より多くの者が誤用し、喧伝し、利用し、まるでマスターたちの霊的秘密結社の名前のように扱われてきた、「白いローブをまとう同胞たち」とは、そういうことなのだ。それは自ら白くあり続けるための責任の象徴なのだ。誰か超越的な存在によってえらばれたという証、あるいは名誉というものではない。

 

そして我々がまとう白いローブは、汚れが目立つ。それだけに意識的に生きていかねばならない。

 

おまえさんは、白いローブをまとう覚悟があるかい?


ま。そんな話さ。

 

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コメント

  1. おひさ~
    転職したけど、今度は何の学びの段階なのか
    全然分からないおいらがきましたよ(w

    ん~なんていうか
    本当にキリスト教も仏教も本質って同じだね~

    ダスカロスやいわゆるマスター的な人っていうのは
    仏教では菩薩といわれる段階の人々だよね

    この段階の人達って
    神様の一歩手前にいて
    愛そのものになる修行中だものね

    すべてが愛であることを理解し体現してもいるけれど
    自身が愛そのものにまではなっていない
    その最後の修行中・・・

    言葉で書くとどうしても安っぽくなっちゃうけれど
    とんでもないレベルの段階だよね

    法華経では、お釈迦様はこの段階(菩薩)にある者でなければ
    自分の話す内容は理解できないと前置きしてから
    お話をしているのだけれど、
    まぁそうなんだろうね~

    ちなみに
    仏教では六道の次の段階として
    声聞→縁覚→菩薩→如来(神様)と進んでいきます。
    輪廻するのは六道まで。
    声聞、縁覚、菩薩
    この三乗はそれぞれの段階をクリアするまで
    何度でも同じ道に生まれ変わります
    そこで堕落して落ちない限りはだけれどね。

    声聞というのが師について教えを受けて
    修行をする段階
    縁覚は学んだことを自分で体現できるようになる修行をする段階
    別名独学ともいいます。これは市井での修行になりますな。
    この修行を進めていくと全てが愛であるということを理解できるようになります。
    んで、理解だけではなくそれを体現できるようなるまで修行が続きます(多分ね)
    菩薩は愛を体現するようになった者が愛そのものへと昇華していく段階(多分…)

    先は長いね~

    ただね・・・こういう道を歩くというのは
    ごくごく自然なことなので苦痛でも何でもなくなるんだよね
    修行そのものはもちろん辛いんだけれど
    歩んでいること自体は喜びなんだよね

    白いローブを着る覚悟は
    確かに最初は必要
    でも、修行が進むと別に何とも思わなくなるよね
    重いとも、苦しいとも、かっこいいとも、えらいとも
    何にも思わなくなると思う

    呼吸するのと何ら変わらないことなんだもの
    本当はさ・・・

    そんな段階に早く至りたいね~(w

    あっ ちなみに六道輪廻の六道って
    全部人間だと思うよ
    別に動物に生まれ変わるわけじゃないよ
    心のありようだよね
    いわゆる生まれるときに背負っている業のことだよ。

    (えーわたくしの仏教感は非常に特殊ですので、ご容赦を)

    • 加藤 夏樹

      ふらぐめんと

      どうせすぐになんのためなのかイヤでも突きつけられる段階にくるだろうよww

      本当にキリスト教も仏教も本質って同じだね~
      ダスカロスやいわゆるマスター的な人っていうのは
      仏教では菩薩といわれる段階の人々だよね


      そうそう。
      菩薩に該当するとおれもかんがえてるよ。
      そして勝手ながら、釈迦は薔薇十字系のマスターだと
      位置付けているwww(by シュタイナー)

      さて、おれたちは一体どのステージにいることやら。
      まぁ聖人フラグメントさまは確実に
      縁覚は学んだことを自分で体現できるようになる修行をする段階
      別名独学ともいいます。これは市井での修行になりますな。


      にいそうだが、おれはその前後をいったりきたりだなー。(笑)


      ただね・・・こういう道を歩くというのは
      ごくごく自然なことなので苦痛でも何でもなくなるんだよね
      修行そのものはもちろん辛いんだけれど
      歩んでいること自体は喜びなんだよね


      そうそう。道を歩くこと。それ自体を愛せるようになる。

      白いローブを着る覚悟は
      確かに最初は必要
      でも、修行が進むと別に何とも思わなくなるよね
      重いとも、苦しいとも、かっこいいとも、えらいとも
      何にも思わなくなると思う


      困ったことに、
      それを名誉とかなんとかそういもんだと思う輩はこの道では多い。(笑)
      ほんとはそれを誰もが持っている「良心」とか「理性」なんだけどねー。

      ちなみに六道輪廻の六道って
      全部人間だと思うよ
      別に動物に生まれ変わるわけじゃないよ
      心のありようだよね
      いわゆる生まれるときに背負っている業のことだよ。


      なるほど!

      それなら激しく納得する。

      ちなみに仏教では輪廻する「主体」をどうとらえているのだろう?
      いわゆる「魂」に該当するものを仏教ではないだろ?

    • ふらぐめんと
    • 2017年 5月 18日

    >釈迦は薔薇十字系のマスター
    なぬ? お釈迦様ってキリスト教に関係してるの?
    まぁ~実際上ではみんな一緒なんだろうけれどね。

    >縁覚
    まぁ 確かにその段階の修行をしているけれども
    なんていうの おいらの場合
    「けっ てめぇの教えなんか信用できるか!」
    って神様に喧嘩を売って出てきた状態なので
    なんとも言えないね~
    実際、堕落して落ちる可能性が大な状態だったしね(苦笑)

    いろんな人や存在に助けられ、導かれて今があります。
    もちろん修行とか苦難とかいう形でしか助けてくれないんだけれどね。
    絶対楽はさせてくれません。
    そんなの無意味だから。

    >ほんとはそれを誰もが持っている「良心」とか「理性」なんだけどねー。
    まさにそのとおりだよね。
    人は動物的衝動や感情に支配されているから難しいけれど
    そこから解き放たれ自由を手に入れる段階に至れば
    ごく普通のことでしかなくなるのだと思うよ。

    >ちなみに仏教では輪廻する「主体」をどうとらえているのだろう?
    いわゆる「魂」に該当するものを仏教ではないだろ?

    正直に言うと「知らない」
    考えたこともなかった
    別に仏教徒ではないからさ~(w

    でもね。多分視点というか考えている次元が違うんだよ。

    仏教では「諸行無常」「諸法無我」
    「全にして個、個にして全」「縁起」
    という考え方が根底にあるけれど
    これはマクロな視点なんだよね。

    万物は生命だろうが物質だろうが全て神(一つなる存在)の現象にすぎないじゃない?
    その意味で神を離れた特別な個が存在するわけではないし
    個と見えるものも様々な事象の連なりで特定される相対的な事象に過ぎない。
    という意味で魂とか個とかを存在しないと言っていると思うよ。

    おいら達のようにミクロな視点に立つ者にとっては
    相対化された事象は神とは別個の「個」として認識されるから
    その意味では魂や永遠の人格は「在る」んだよ

    どちらが正しいとか間違っているとかでなくて
    どっちも正しいのだと思う。

    それぞれが自分の認識段階に合わせて「こうだ」と
    思った所にフォーカスすれば良いと思うよ。

    • 加藤 夏樹

      ふらぐめんと
      >釈迦は薔薇十字系のマスター
      なぬ? お釈迦様ってキリスト教に関係してるの?
      まぁ~実際上ではみんな一緒なんだろうけれどね。


      シュタイナーが勝手にいってることだから気にするなw

      >ちなみに仏教では輪廻する「主体」をどうとらえているのだろう?
      いわゆる「魂」に該当するものを仏教ではないだろ?

      正直に言うと「知らない」
      考えたこともなかった
      別に仏教徒ではないからさ~(w


      うん、いやね、密教にすんげー詳しいひとに
      聞いてもよくわからなかったという経緯があってねぇ。
      ちょっと疑問だった。

      万物は生命だろうが物質だろうが全て神(一つなる存在)の現象にすぎないじゃない?
      その意味で神を離れた特別な個が存在するわけではないし
      個と見えるものも様々な事象の連なりで特定される相対的な事象に過ぎない。
      という意味で魂とか個とかを存在しないと言っていると思うよ。


      わかる。とはいえ、その認識主体とはいったい何か、
      というのがね。「識」がすべてを生成しているといってしまえばまあそうなんだろうけど。

      ところでさ、先日、作家としての師匠と会っててさ。
      気が付いたら研究者としての在り方から
      なんか人生を通した「探究者」にすごく様変わりしていて。
      元の知的バックボーンがディープだから、
      年上の方に上から目線で失礼だけど、
      霊性の成長速度が速くて驚いていてねぇ。

      それはそうと、
      その人が六道の解釈についてフラと似たようなことを
      言っていた。

      ・輪廻の道筋
      ・現世での心での在り方
      ・あの世での心(魂)の在り方

      別になんか別に存在に生まれ変わるとかいう教えではなく、
      今生きてるこの人生、死後の世界、その先・・・
      そのすべてでの心・魂のありようという三重の意味がある、とのこと。

      禅の道元とかはそのへんディープに教えていて、
      輪廻やカルマの仕組の探究なくして道を歩もうとする者は、
      邪道に落ちる、という趣旨のことを明言しているそうだ。

    • ふらぐめんと
    • 2017年 5月 19日

    >作家としての師匠
    メルマガで紹介されてた人だね。
    すごい認識段階に至ってるみたいだね~
    オイラもあってみたい。

    「すべてただ在る そのままで真理なんだ」
    という感覚と
    「全ての存在に感激して涙が出てくる」
    という感覚まではオイラも分かるんだけれど

    『ああ、?なにか?がここで、一時的におばあさんという体験をしている』
    という感覚や
    「ああ、本当にすべてはひとつだったのだ」
    という感覚は未経験なのよね~
    「ありとあらゆる全てが愛である」という感覚はあるんだけれど
    全てが一つという感覚にまではなっていない

    でも、こういうのは質問したからって分かるものでもないんだろうな~
    自分で分かるようになるしかないものね・・・

    >六道の解釈
    輪廻の道筋については深く考えたことはないけれど
    多分同じ意味だろうね。

    >道元
    曹洞宗ですな。
    実は会社の研修で毎年、曹洞宗のお寺で座禅してたけれど
    デブにはきついのよね~
    足が組めなくてさ(w

    >本物の探究者たちは、本当に「同じ」
    オイラも本当にそう思う。

    山を登る登山道は無数にあるし
    どの道を上っても良い。
    別に宗教でなくと良いし、学問である必要もない
    そしてどんな道から上っても
    山頂に近づけば同じ景色を見ることになる
    だからみんな同じことを話すんだよね
    そしてそれぞれが自分の上ってきた道を教えてくれる。
    そういうものだと思っているよ。

    >すごい成長

    これって、現世だけを見てるからそう感じるだけで
    おそらく輪廻の流れ、カルマとの対峙、天での学び
    そういったもの全てを考慮すれば
    そうなるべくしてなっていると思うよ

    学び自体は既に終えていて
    今はそれを本当に体現していく段階だったのではないかな

    オイラは全然そんな高いレベルにはないけれど
    縁学の学びって一度学び終わったことを全て忘れた状態で始まるけれど
    それを実感として体得できたときに
    一気に過去に学んだ知識と結びついて階段を上るような感覚がある

    たぶんそういうことなんじゃないかな~

    ああ、でもオイラもそろそろそういう人達に会ってみたいな。
    己の未熟さと傲慢さを嫌と言うほど思い知らされるだろうけれど
    前を歩いている人を現実の実感として感じたいな~
    と思うようになってきた。

    なんだろ。寂しいのかな?
    よわいね~オイラも(苦笑

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