叡智と真理を探究する者のために

キレイなまま汚れを笑うのは美しいのか?

どうもこんにちは、たーこです。

小学3年生の頃のことです。掃除の時間水道掃除の際、私は水道の排水溝を普通に洗う人でした。具体的に言えば、髪の毛や唾や痰や等いわゆる「汚いもの」を普通に触って洗い流していました。

ある日のことです。私は排水溝を普通に触って洗いますし、洗うときは割と粘ついたものや髪の毛等溜まっているものなので、「そういうものだし出るものは出るだろう」ということで、流しに私も痰を吐きました。

そうしましたところ、その日のうちに担任のHという担任が黒板の左上に何かの格言のように「つばはきたなくない。たんはきたない。」と書いて、何か言ってました。

で、しばらくの間この記録はそのまま残されていました。

今思うに、恐らく痰を吐く私の姿を見た誰かが告げ口したのでしょう。

なんにせよ当時の私は「?これはもしや自分のことを言ってるのか????」と、やんわ〜り思いながらも大真面目に聴きつつ「そうなのか?」と考えていました。そして今でもたまに考えます。

 

「唾も痰も、役割どころは少し違えど、ほぼ同じじゃないか?」と。

 

唾は殺菌を目的としたもの。

痰は死んだ白血球と細菌の排出を目的としたもの。

でも、吐けばみんな同じではないのか?

特に掃除する立場では同じではないのか。

排水溝に付着した黴や雑菌と何が違うのか。

 

掃除のとき、きちんと掃除する人は少なかった排水溝。

髪の毛や排水溝に絡まった痰をさわりたがる人は居ませんでした。

てか、ちゃんと洗わない人も多かったと思います。私も、率先して触りたくはなかった…ような気もする。

でも、手は洗えば済みます。モノの汚れは基本的には人の手で洗わないと取れません。(薬品使って洗うことも可能ですけどね。)

※この辺は母親に仕込まれたことですが、基本的には確かにそうだと思います。

 

その上で、私のクラスメイト→担任の告げ口妄想が正しかった場合。

 

掃除は誰かがやらないといけません。

当時の私はその場にいた誰よりも(言い過ぎかもしれないが、その位)義務を果たしていた筈です。

それなのに、ろくに汚いものに触りたがらん奴が普段普通に義務を果たしていた身の私が排水溝に痰を吐いたことを先生に告げ口する。

担任もそれを十把一絡げで汚い汚くないで処理する。

もう、色々とよくわかりません。

 

実際問題として唾や痰が本当に「きたない」のか、私には未だにわかりません。

衛生的には体外に排出された時点で両方汚いものにあたるかもしれません。

でも担任はただ「つばはきたなくない。たんはきたない。」と、黒板にご立派な文字で書き記した訳です。

この点について、小学3年生の時点で私はこう思っていました。

女性は子供を産めばいつか必ず一度は自分の子供の糞尿を触るのに、唾や痰に触るのをいやがるのか?

雑菌だらけの子供の鼻水やゲロ、痰を触ったり処理したりするだろうに。

畑の堆肥のたっぷり混ざった土はどうなる?きたないのか?

 

ここでちょっと話が変わりますが、数年前、道路で狸が轢かれて死んでいました。

女の子たちが「きゃー、やだー!行こー!」と、いって騒ぎながら離れていまた。

既に狸とは相当距離があるのに、更に離れつつ、目線は狸。

私はその様子をじっと見ていました。

 

前述の「つばはきたなくない。たんはきたない。」の話を思い出しながら、狸と女学生達を見ていました。

その結果…というか気づいた時には既に私は狸を抱えて置き場を探して歩きだしてました。

 

女学生達は奇異の・いやんな感じで私を見ながら帰って行きました。

そのように行動すること自体に抵抗はありませんでした。が。

行動しながら、前述のシチュエーションで敢えて行動してしまう自分に非常に苛ついていました。

「ほっといてもいいだろうに。夏樹との待ち合わせの時間もあるのに何しとるんだ私は。」

など思いながら、それでもそのように行動することに迷いがなかった自分、それ以外の行動ができない自分に苛つきました。

ちなみに女学生達は奇異の目で私を見ながら行ってしまいました。あーあ。

 

死にたてホヤホヤの狸。「初めは寄生虫がいるといかんな」と思い、ビニール越しで抱えていましたが、ビニールが思いのほか小さく、

狸も思いの外ご立派でしたので、ほぼほぼ直で抱えてました。

生暖かく固い死体の感触に「これが死体か。」と思いつつ、「つばはきたなくない。たんはきたない。」のくだりを反芻していました。

 

「つばはきたなくない。たんはきたない。」それなら、こうも言い換えることができるかもしれない。

「生きてるものは汚くない。死んでいるものは汚い。」

じゃあ、普段食べてるものはなんだ?

こうやって「汚いもの」とやらをお金も貰わず、何のメリットもなく(むしろ現実的にはデメリットしかねえw)触ってどうこうしようとする私はなんだ?ただのばか野郎なのか?

 

そうかもしれない。

でも、それは、我ながら「なんか違う・そうではない」という気もする。

 

なら、汚いものを触ってどうこうするのが仕事の誰かは「汚い」のか?

仕事に貴賎はないというけれども、実際の所世間一般の感覚ではおおよそ実行不可能ではないかと思われるような仕事もあるのは確かだと思う。

その人達はなんなのだろう。

などと、モヤモヤイライラグルグルしながら徘徊していました。

 

ちなみに狸は申し訳ないがその辺にあったごみ箱に捨てました。

私は交通事故で死んだ狸をごみ箱に移動させただけで、大したことはしていません。

 

しかし、世間的に恐らく「汚いもの」にあたるものに触る私は汚いのでしょうか。

私は、きれいなものが好きなのに、汚いものに触りたがらないことは、矛盾しているように思います。きれいなものが好きということは身の回りをきれいにすることも好きで然りではないのかと思うのです。

 

そんなこんなで昨日の夜悩みました。

 

つばはきたなくない。

たんはきたない。

 

多少わかるが理解ができません。

吐けば、目に見えれば、どちらも汚く見えるでしょう。

でも、だからきれいにする必要があるのではないのでしょうか。

 

世間のきれい、汚いが私にはよくわかりません。正直、そんなこと思うべきではないのでしょうが、そんな自分にも世間にも嫌気がさすことがあります。

 

手はモノを作りモノを癒し磨くことが出来ます。色んなことが出来ます。その「手」が「きたないもの」に触れることなく生きることはきれいなことなのでしょうか?

 

私は皆様に問いたいです。

 

自身はきれいなまま安全な所で、きたないものに触れずに触れようともせずにいる人が、恐らく自分も発生させている筈の「きたないもの」についてどうこう批判する様は正しいのでしょうか?

 

まあ、今日はそんな話です。

 

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