おれたちは幾らでも立ち上がれる。
ぽまいら、大丈夫か。
まだまだ災害の全容がつかめなかったり、身内や親しいヤシらと連絡がつかなくなったり不安なまま過ごしている人たちもいるかもしれん。
中には実際に親しい人を亡くした・・・というのもいるかもしれねぇ。哀悼の意をささげることしかできねぇわけだが。オレさまの仙台の友人は幸い、難を逃れたが。
いずれにしても、いま生きているオレさまたちは、明日に向かって生きていかなきゃならん。
ぽまいら。まずは、家族・近親者など、親しい人々から、柔らかな祈りと桃色の波動で包み込むように努めてくれ。それはおまいらのハートから出る波動だ。人を安心させ、安からにする波動だ。
そしてできるなら、被災地全域を包み込むように頼みたい。日本列島が不安・恐怖・絶望・失望・・・そうしたネガティブな波動につつまれてしまっているからこそ、そう努めて欲しい。
せめて一人でも、不安を和らげ、安らかに眠れるように。ささくれだった人々を鎮め、不用意ないさかいを起こしたりしないように。
さて。私事だが、オレさまは東京都心から横浜まで、徒歩での帰宅となった。5時間以上歩くと、さすがに脚が痛くなってきて、家の近くまできたときはもうペンギンのようにピョコピョコとみっともない状態になっちまった。(苦笑)
それで帰るとき、都心から中原街道→綱島街道へと歩いてきたわけだが、東横線で言うと、武蔵小杉、とくに日吉あたりに至ると、もう街並みが真っ暗になっていた。
それまではコンビニなど多くの店舗が、経営していた。徒歩帰宅者は、コンビニで休憩しながら歩き、つぎのコンビニで休んだり、飲食店で休憩・エネルギー補給しながら歩くということを繰り返していたようだ。
ほんとは自分たちも早く帰りたかっただろうに。だが、開店時間を延長してでも、街道沿いなど徒歩帰宅者が多く歩いた道筋の店舗は、多くが営業を続けていた。
しかし、日吉あたりからは停電地帯が多かったのだろう。開いている店はコンビニはもとより、まずなくなってきた。多くの信号機も灯りを消しており、あんなに暗い街を歩いたのは初めてだった。
だが、日本人はすげぇな。
これがどこぞの国なら、とっくに暴動で店舗という店舗が略奪の憂き目にあっていたに違いない。しかし、日本人は秩序を見事なまでに守っていた。この秩序の維持っぷりに、ネット上では各国の市民から―中国からさえも―賞賛の声があがっている。
こうした民度の高さが、日本人の誇るべき美点だろう。
第二次大戦の焦土から復興し、近くは阪神大震災からもめげずに立ち上がり続けた日本人。次は、この大震災からも立ち上がっていくことだろう。
まだまだ、危機が完全に去ったとはいえない状況だ。(原発問題やら余震・津波やら)そして被害状況も分かりきっていない。ほんとの「現実」に直面するのは、さらに情報の整理を待たなければならないだろう。
だが、オレさまは、ぽまいらを、日本人を信じているぜ。
数年後、「アレはほんとに大変だった。しかし、あれを機に我々はさらにひとつにまとまった。そして大きな目標を得て、立ち上がった」といった具合に振りかえろうぜ。
ま。そんな話だ。
せっかく来んだから、押しておけって、コレ。(藁↓
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