ウェティコ―神の目を見よ
はい、どーも。オレさまです。唐突だが、上記の本は再読中の本。
ウェティコとは、野蛮で略奪をする西洋系の非成熟文化をさす言葉だ。書いたのは米国人の医者だが。
対比される成熟文化とは、ネイティブ系であったり、「野蛮で未開とされた」自然と調和していた土着系文化をさしている。しかし、彼らは実は労働はごく短時間ですみ、自由にあふれ、余暇を楽しんでいた。一日2~4時間も生きるための狩猟、採集、生産活動に従事するだけだ。
あとは、「オレさまたち文明社会人が目指す」自由な生活だった。しかし、オレさまたちの社会ではそれは、一部の「富める」者たちの特権だ。
詳細は割愛するが、オレさまが注目していたのは、「蓄積する」ということの害悪だ。社会がおおよそ「富の集中格差があふれるほど、政府(支配者)は暴力的であり、刑務所、収容所のような施設が多い」とされている。
この言からすると、日本でも近年「格差社会」という言葉がよく聞かれるように、ますます「野蛮な」社会へと向かっているのかもしれない。
この「蓄積」―ここではシェアの対義語とする―だが、最初は「食料」と思われがちだ。食料が富と直結しており、富を多く生産し、所有する者が他者を支配する力をもち、構造化していった。
しかし、それ以上に、「文字」が知識を蓄積させ、人を野蛮にしたという見方も面白い。文字による情報の蓄積が始まると同時に、人は理性面を発達させ、古代の土着系民族が普遍的に持っていた、神や精霊と呼ばれる目に見えない世界を幻視する力を失い、敬う心も失っていったのだ、と。
これはシュタイナー的な、古代人は夢の意識をもっていき、原始的な霊視能力を持ち、霊界と重なりあうようにこの世界を見て生きていた、という説とも一致する。
それを文化人類学的な視点から学術的な点から考察している。
さて、人は文字を持ち、脳の理性野を発達させてしまったことで霊視世界を失ったが、いまや、理性的な力で、霊的世界につながることが可能になった、ともいえる。
逆説的だが、かつて有し、失ったものをより高度に再び手に入れる可能性を持ち始めている。意識魂とシュタイナーが呼んだ進化段階においては、かつての夢の意識による霊視状態から、醒めた意識で霊視世界に踏み込む時代なのだ。
それは、人が自然との対話能力を失い、自然を略奪することを当然の権利、と思っている傲慢なる時代に終止符を打つことにつながる。
自然を大切に、というのはカンタンだ。しかし、自然からの声を、意志をリアルに見聞きしていた人々に比較すると、どうしたってその掛け声は理念的なものに過ぎない。
ところが、この現代人的意識、知性をもってして、霊視世界をとり戻したらどうだろう。
人は再び、「野蛮人のような振る舞い」はできなくなる。
母なる大地を奪うこと。
同胞なる動物を必要以上に奪い続けること。
そのすべての行為において、「現実に悲鳴を聞く」ことになるからだ。
2012年。人類の目覚めは近いという。
しかし、オレさまはあえてまだまだ遠い、と言おう。
オレさまたちがより進化し、世界の痛みを本当に、霊的に見聞きする人々が大勢を占めるとき、「世界」と本当の意味で調和する準備が整うのだから。
ま。そんな話だ。
「もし世界の声を聞いたら、アタイもう無視しないわ!」なんて思ったら、ぽちっとな。(藁
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