ノーベル平和賞
「もし、浮気がバレたとしても、100回『誤解だ。愛してるのはキミだけだ』と繰り返せ。理屈じゃない。どんなウソも繰り返せば、真実となる・・・」なんてセリフは様々なバージョンを生み出しつつ、古くからよく言われるとだよな。
そしてコレを地で行くのが国際政治。俗に言う『プロパガンダ』ってヤシだ。宣伝工作な。たとえば戦争時におけるアメリカなんてのもその良い例だ。なんつっても、戦争に広告代理店をかませて宣伝工作を任せ、善悪の二元論的なイメージを国際社会に刷り込んでいく。
ウソも100回繰り返せば・・・。
もしかしたら、このテのことを最初に言い出したのは、外交官たちなのかしもれない。
さて。このウソ100回を地でいくもう一つの国家といえば、やはり中国か。放っておけば日本列島はもとよりアメリカ大陸から南極大陸まで「我が国の領土だ!」と言い出しかねない、と思わず本気でそう思ってしまうのはオレさまだけじゃないと思うんだけどな。
で、そんな中国の宣伝工作にもめげず、ノルウェー政府は中国の民主運動家劉暁波氏に与えられた。だが、本人は「国家政権転覆扇動罪」で投獄中。奥さんも自宅軟禁。親族すらも出席はできなかった。
この劉氏に受賞が決まったとき、さんざんっぱら中国はノルウェーに外交圧力をかけたり、「中国の立場を世界の多くの国家が支持してくれた」と宣伝をしたりしたが、今回は大国の圧力も通じなかったようだ。
報道によると、結局中国を支持して授賞式を欠席したのは19カ国。その多くが人権問題を国の内外から批判されている問題のある政治体制の国家ばかりだ。ヘタに民主運動家を称揚できないスネに傷を持つ連中、というわけだ。
そして何より、ノルウェーのような小国が中国の圧力を撥ね退けたのは、立派なものだと素直に感心したぜ。あるいは、ヴァイキング気質の勇ましさ?なんだろうか。(笑
それにしても、多くの中国人の民主運動家が西側諸国に脱出していく中、国内に残り続け、投獄と釈放を繰り返され、それでも負けずに国内でがんばっている。
アメリカに留学経験も持ち、博士号持ちのインテリだが、ただのひ弱なインテリではなかったということだな。
そんな彼の受賞へのメッセージは次のようなものだったようだ。
授賞式で代読された「私には敵はいない 最後の陳述」
私の人生において(天安門事件の起きた)1989年6月は重要な転機だった。
私はこの年、米国から戻って民主化運動に参加し、「反革命宣伝扇動罪」で投獄された。そして今また、私を敵と見なす政権の意識によって被告席に押し込まれている。
しかし、私には敵はおらず、憎しみもない。私を監視、逮捕した警察も検察も、判事も誰も敵ではないのだ。私は、自分の境遇を乗り越えて国の発展と社会の変化を見渡し、善意をもって政権の敵意に向き合い、愛で憎しみを溶かすことができる人間でありたいと思う。
改革開放が国の発展と社会の変化をもたらしたことは周知の通りだ。改革開放は毛沢東時代の「階級闘争を要とする」執政方針の放棄から始まり、経済発展と社会の平和的な融合に貢献した。
こうした進展は、異なる利益や価値が共存するための土壌をつくり、国民の創造力の発展と愛情の回復の励みとなった。経済の市場化、文化の多元化、秩序の漸進的な法治化。これらはみな、敵対意識の弱まりによってもたらされた。
最も進歩の遅い政治領域でも、敵対意識の弱まりは政権が社会の多元化に対して包容力を増す効果を生んだ。政治思想が異なる者への迫害は大幅に弱まり、89年の民主化運動への評価も「動乱」から「政治的風波」へと変わった。
98年に中国政府が国連の2大国際人権条約への署名を世界に約束したことは、中国が普遍的人権の標準を受け入れたことを示した。2004年には憲法が改正され、初めて「国家は人権を尊重し保障する」と明記された。こうした進歩は、私自身も逮捕されて以来の経験の中で感じ取ることができた。
私の心は、いつか自由な中国が生まれることへの楽観的な期待にあふれている。いかなる力も自由を求める人間の欲求を阻むことはできず、中国は人権を至上とする法治国家になるはずだ。私はこうした進歩が本件の審理でも体現され法廷が公正な裁決を下すと期待している――歴史の検証に耐えうる裁決を。
私は私の国が自由に表現できる大地であってほしいと思う。そこでは異なる価値観、思想、信仰、政治的見解が互いに競い合い、共存できる。多数意見と少数意見が平等の保障を得て、権力を担う者と異なる政治的見解も十分な尊重と保護を得ることができる。すべての国民が何のおそれもなく政治的な意見を発表し、迫害を受けたりしない。
私は期待する。私が中国で綿々と続いてきた言論による投獄の最後の被害者になることを。
表現の自由は人権の基であり、人間らしさの源であり、真理の母である。言論の自由を封殺することは人権を踏みにじることであり、人間らしさを窒息させることであり、真理を抑圧することである。
憲法によって付与された言論の自由を実践するためには、公民としての社会責任を果たさねばならない。私がしてきたことは罪ではない。罪に問われても、恨みはない。
以上
中国という「国」は好きになれんが、こういう「人」は好きだしは尊敬もするぜ。偉大な男だ。国際社会は、彼のようなヤシを守るためにも、目線を注ぎ続けて欲しいと思うぜ。
ま。そんな話だ。
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『ノーベル平和賞を政治的茶番劇と中国政府は非難したみたいだけど、中国政府こそ存在自体が政治的茶番よね』と思ったらぽちっとな(藁
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