シュタイナーの言葉考
今回は、シュタイナーの言葉を考えていこう。
高貴な理想主義者になるには、「私」が自分の魂を霊的に、高貴になるように働きかけねばならない。「私」が魂の生活を支配できなければならない。そして「私」が許さぬ限りは、魂の中にどんな欲望も、どんな享楽も場所を占めなくなる時、それまで意識魂に過ぎなかった魂の全てが「私」の表現となる。
そもそもの前提だが、高貴な理想主義者とは何か。
神秘学的な立場から言えば、「理想」とはやがて実現されるべきものだ。この世界に打ち立てられ、実践されるべき高次の現実なんだ。なので、決して夢想家ではない。
むしろより良い方向へ向かう、前向きなリアリストだ。そしてこの世界に対して、「それが現実さ」とオトナぶって諦観することもない。
いかなる「現実」であれ、それを打ち立てたのは人であり、すべては人の理念・思考から生まれたものであると彼は知っているのだ。
高貴な理想主義者は、何を高貴と感じるのか。
それは自分の胸に宿る志、希望、欲求、理念・・・自分を突き動かす衝動が、より高き世界の叡智に基いたものでなくてはならないと知っている。
そのために、低次の欲望に支配されぬよう、自らの意志と理性でおのれの魂を完全にコントロールする必要があると知り、実践する。
自分を低いものへと堕とす欲望に支配されぬようになったとき、彼は知る。自分の感じる「私は私」という意識が、完全に意識化されていることに。
もはや、いかなる移り気な欲求や衝動によってフラフラと人生をさ迷うこともない。
私が私というときの私は、完全に私のコントロール下にある。理性に裏打ちされている。
このような「私」になるとき、私の抱く欲求は、それ自体が社会、そして人類にとって有益なものとなることを知っている。
そのときこそ彼は高貴なる理想主義者として私を表明し、歩きはじめるだろう。
せっかく来んだから、押しておけって、コレ。(藁↓
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