叡智と真理を探究する者のために

引き寄せの法則雑感

最近、引き寄せの法則についての考察をぽつぽつとしているが、基本的にオレさまとしては、このあたりのものはジェームズ・アレンを中心とした、人格主義と呼ばれている古典派を推奨している。



昨今世に出回っている引き寄せ系は、引き寄せスキルの使い方ばかりに注視して書かれていること、欲するものは「なんであれ」叶うし、叶えていいんだ、としている思想にひっかかるからだ。



実践的スキルとしていいかもしれないが、それはそれで、欲望の肥大化を招くなど、「スピリチュアリティ」の視点からみると、いかがなものなのか、と言いたくなることが多い。



とはいえ、ここで一つ思うのは、「欲するものはなんでも叶う」というは一種の方便、あるいは原理原則をそのままズバっと言っているのかな、と思わないでもない。



霊的法則―カルマの法則、原因と結果の法則―の視点やこの世界はすべて「意識」から生まれているという神秘学的視点からすると、確かに「想像できることはすべて創造できる。あとはどこまで自分に可能だと信じ、継続し、精神的エネルギーを注げるか」という点が問題になる。



そしてもう一つが、「カルマによって為しえないこともある」という点について触れていなのもひっかかる。たとえば、過去に行ったある行為の清算として、今世においては「貧乏に過ごす」という設定があるとする。



こうしたときは、たとえ一時的に富を築いたとしても、「幸いにして」また貧しくなるだろう。つまり人生の大目的に反したことは、一時的に為しえたとしても、軌道修正はちゃんと為される。



「引き寄せの法則に取り組んだけど、ちっとも機能しない」と嘆く人々は、そうした「自分には許されない望み」を抱いている可能性だってある。



だが、「引き寄せを機能させる能力」それ自体を養っていないという点がもっとも多いように思う。




昨今の本は、確かに引き寄せを機能させるためのハウトゥ本が多い。しかし、それ以前の精神的な「基礎体力」がなくては、話にならない。



この「基礎体力」についてあわせて言及し、トレーニングするという発想で書かれている本となると、ほとんどないのが実情だと思うのだが。



まぁ何はともあれ。


とりあえずは、カルマの法則の実生活面などから入るのもいいか、ということで、「引き寄せ」に対する嫌悪感が減少しつつもある。



以前は、昨今の引き寄せ系を「叡智の悪用に近ぇよ!」とロコツに嫌ってもいたが、肯定的評価も辞さなくなったところをみると、オレさまも丸くなったなー。



ま。そんな話だ。



                     訂正 1  



せっかく来んだから、押しておけって、コレ。(藁↓
                        

関連記事

コメント

  • トラックバックは利用できません。

  • コメント (0)

  1. この記事へのコメントはありません。

CAPTCHA


特別講義

おすすめカテゴリー

MYブックマーク

カテゴリー

最近のコメント

  • ポチ { とっても共感します。 キリスト教ではキリストに似る、であったり創造を完成させることがゴールですが、キリストは創造を完成させるために受肉と贖罪とその後の継続的な働きかけを行い、創造の完成は「(自我の束を含む)この社会」を指してるわけなので、社会運動に参画せざるを得ない。 それをキリスト教で一番端的に表現しているのがプロテスタントなんだろうと思います。 アメリカは理想と現実の狭間で矛盾だらね。でも彼らはだからといって理想を捨てることはありません。 }
  • 加藤 { いえいえ。お役に立てていたら幸い・・・! }
  • 市川康明 { 何時も,魂の浄化をさせて頂いております. 有難うございます. }
  • 加藤 { こちらこそ目を通していただき、感謝です。 }

ブログをメールで購読

メールアドレスを記入して購読すれば、更新をメールで受信できます。

RSS

twitter