気高さを持つ人-勝手にエールを送りたくなる人たち
人は、どのような人に対して、「気高い」と感じるのだろう。
ふと、そんなことを思うことがある。
自己保身や利益を度外視してでも、他者のために尽力したりする。
それも一生懸命に。
そういうエゴイズムを捨てた先の行動は、きっと誰もが普通に共感を招くところだろう。
マザー・テレサとかのさ、無私の奉仕の精神というか。
一方でさ、オレさまは毎朝、こういう人を通勤途上で見る。
まだ若い女性なんだが、何かしらの発育不全であまり身長も高くなく、
とくに脚がよくない。
でも松葉杖を両脇に抱えて、必死に、そして通勤ラッシュの人の流れを
阻害しないようにスピーディに歩いてるんだ。
彼女は、見た目にもはっきりわかる大変な身体を抱えてる。
だからたとえのろのろと進んでも、よっぽど心ないヤシでもない限り、
別に文句はいわねぇだろう。
でも、その人は、周囲の流れと同じ速度かやや速いくらいで進む。
夏なんか、それだけで汗だくになりそうだった。
勝手なこちら側の解釈だけどさ、
通勤時間に間に合わせるためとかの都合ではなく、
あくまでも周囲への配慮と、「障がいに甘えたくない」という気概を感じるんだ。
そういうとき、もちろん何ができるわけではないのだけれども、
勝手にひとりで「がんがれよ」とエールを送る。
世の中、「勝手にエールを送りたくなる」人が増えたら、
もっと楽しい世界になるんじゃねぇかなと思う。
いずれここでも書く機会があるんじゃないかと思うのだが、
たとえば「ゴミ拾い」だけで人生を、生き方を、
なにより周囲を変えてしまった若者とかさ。
しかし、それ以上に、そういう人たちに目を向けていない、
気づけない側に問題があるような気がするけども。
しかし、その生き方だけで共感を呼び、
ある種の“熱源”となる人たちといえばいいのかな。
そんな人たちは確かにいる。
たまにそういう人を見出すと、
「人ってやっぱおもしれぇな」と思えるし、
こんなズタボロの社会でも、良くなっていくんじゃないかと思える。
そうなると、結局エールを送ってんだか送られてるんだか、
わからなくなる。(苦笑
つまり、あれだ。
誰かにエールを送ってもらえるような生き方。
無意識のうちに、そんな生き方になっていたものだな。
そうあるだけで、人は一本の花として、
庭園(社会とか世界とか)それ自体を美しくすることに
貢献しているのだろうから。
ま。そんな話だ。
「あたいも誰かに共感される人でありたい!」なんて思ったら、ぽちっとな。(藁
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