叡智と真理を探究する者のために

部屋とYシャツとカルマ

思わず平松ナントカはまだシンガーソングライターやってんのか・・・?なんてタイトルだが、そんなことより「アタイが負債として払わなければならないカルマなんていらないわ! 全カルマ解除しかないわよっ!」なんてとっても便利なスピテクに思わず頼りたくなる木枯らしの季節でございますが、ぽまいらはいかがおのれのカルマを見てみないフリをして生きていやがりますか。



それはともかく。9月末頃か。名古屋に帰省したおり。某所にでかけ。ついでに同行者に「Hey! なんちゃって巫女さんYO!託宣GETしやがれYO!」なんて煽ったところ。



出てきた託宣は、「転機」。はてさて。何がくるのかと思いきや。にわかに副業が怒涛の展開を見せ始め。「これが転機か・・・!(汗」と思っていたら、2011年後半~2012年あたりまでさして進めるつもりもなかった方面の私事まで怒涛の展開を見せ。



ついでに託宣かました本人まで転機な展開にブチこまれるという騒がしい日常でごぜーますだ。



いやー。まいっちんぐでございます。



そんなこんな思っていると、一体、人生において顕れる「想定外」の出来事や、主観的に「幸運」「強運」「不運(不幸)」と思われる出来事というのはなんだろう、と改めて思ってしまうな。



神秘学的にはさ、人生の解釈においては、まず運命の決定論的な面として「目的(地)は決まっている」と考えている。「この人生で、僕はアメリカに行く」と旅行の目的地を決めるようなものだ。だから、確かに「運命は決まっている」といえる。



だから予想外に、人生においてアメリカに行くために欠かせない人、モノ、カネ、環境等がそろってきてしまう。



一方、ではどうやってアメリカに行くか? 徒歩? 水泳? 列車? 船? 貨物船か? いや豪華客船か。はたまた飛行機でエコノミーか、あるいはファーストクラスか。道中は誰といく? 何を持っていく?



そうしたモノは自助努力によって決めていくと考える。目的地への道中をいかに実り豊かなものにするかは本人の努力というわけだ。



大雑把なたとえ話だが、そうしたものと捉えている。



つまるところ、カルマというものも、こうした目的にあわせて出てくるものだ。(が、個人の内的、霊的成長を促す面も強いのでそこはお忘れなく。)



すると、ここで強運とは何か、ということも疑問になる。たとえばアメリカに行くために金銭が必要だが、貯金がない。むしろ借金さえある。



さんなときガッツリと宝くじがあたれば「わーい♪渡航費ができた♪ 向こうで暮らせるカネもできた♪」と感じるだろ。きっと主観的にも客観的にも、「強運」と映るだろう。



一方、もしこの人生の目的がアメリカに行くこと、そしてさらにアメリカで銃に撃たれて半身不随になり、銃社会の理不尽さを車椅子生活者となって訴えていく、というディープなもんまで含んでいたらどうだろう。



この宝くじに当たったことを後には「とんでもない不運だった。あれがなければ、僕は半身不随になることはなかったのに・・・」と感じるときもあるだろう。



あれは、ほんとに幸運だったのか? ぼくは強運の持ち主なのか・・・?と悩みかねない。



だが、さらに後になり、銃社会の理不尽さを訴える日々に充実を感じ、意味を見出してさ。「僕の使命はまさにこれだったんだ・・・」と思えば、宝くじが当たったこと、半身不随になったことさえも、やはり祝福だったと思うだろう。




禍福はあざなえる縄のごとしという言葉があるように、結局幸不幸、幸運・強運・不運ってのは、わからんモンなのだ。




客観的とおぼしき価値観や、主観的な価値観。それらに基いて運不運を決めても始まらない。宿命的な意味での運命、たち顕れるカルマ。そしてセルフヘルプでいかようにも展開する部分の人生のシーン・・・。



それらが複雑にからみあい、「今」を織り成している。運命的としかいいようがない出来事、事象、人との出会い。それらが起こる意味を十全的に見渡し、意味を把握することは人の身には困難なのだ。



カルマはもっとも神秘的な領域だ、とシュタイナーにせよダスカロスにせよ、そう同じことを言っている。基本原理はシンプルかもしれないが、その采配の精妙さは決して人では見通せないのだろう。




だから結局のところ、人は自分が正しいと信じること、そして為したい願いに向かい、そのときどきでできることをしていくしかないのだ。「結果」に翻弄されることなく。できうるかぎりのベストを積み重ねて、より良い未来を構築するしかないのだ。



今日、事故や病で死ぬことが、おまいにとって「ベスト」の結果ということもあるのだから。(※魂の進化成長というのが人生の普遍的な目的、という前提で言ってるからな。)



ま。そうは言っても、負債としてのカルマを支払うための事象は、「痛み」として感じることは否めない。そんなときは、痛みの意味を知り、内省し(これがカルマを避けるキリスト教の言う“悔い改め”だ。)、少しでも早く「痛み」を過ぎ去らせるしかない。



キリスト教の良い点は、カルマの負債を支払うことは不可避ではなく、“悔い改め”によって避けられると伝えている点にある。(もっとも、この意味を明らかにしているのは神秘主義だが。)




繰り返すが、人生における禍福はあざなえる縄のごとし、なのだ。しょうもないことに一喜一憂するよりも、一つひとつを受け止め、吟味し、内省すべくはして次へと一歩ずつ進んでいくしかあるまい。その「良い」積み重ねが、結果として「良い」未来を構築していくのだから。



日々の出来事での選択や対処でぽまいらも悩むことは多いかと思うが、ぽつぽつやっていこうや。



ま。そんな話だ。



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