抗議の品格
はいどーも。すっかりと震災・原発事故・放射性物質等に関することが日常から抜け落ちつつある皆様こんにちは。関東のホットスポットのひとつ、横浜港北区住まいのオレさまが通りますよ。
まったくさ。横浜市長も、も少しマシな対応しやがれ。横浜までまともな「基準値」なら避難勧告なみぢゃねーか、と若干お怒り気味でございます。
あ、さて。
我が祖国愛知県。そこにある日進市での花火大会にて、福島産の花火が「放射生物質を撒き散らす気か」という抗議により、使用中止したそうな。
それに関しては、オレさまは正直、「花火くらいでそんな目くじら立てんでも」と思ったものだ。
が、あの武田教授に言わせると、「この考えがむしろ間違っているようで、放射性物質への対処としては、使用中止が正しい選択」(リンク切れ)だ、ということのようだな。なので、抗議した人は正しいことをした、と。
で、だ。オレさまとしては、正直それにも違和感を覚えた。
いや、武田教授の言うことのほうが対処としては、正しいのだろう。何がひっかかっているのか?と考えていると、「抗議をした人の抗議の仕方、言動」なのだな、と。
その抗議をした人、その抗議を受けての中止というのは、「放射性物質に汚染された可能性のある物品への対処」としては、正しいことだったのかもしれない。が、それは「結果的に」ではなかろうか。
わずかな報道―あくまでもオレさまが見聞きした報道に限るが―で推測される抗議の声としては、武田教授のように論理的に「マズい可能性があるよ」と考えての抗議とは思えなかった。
もちろんすべてではないだろうが、感情的、差別的、ヒステリックに「使用はやめんか!」と言ってるように感じられる抗議だったわけだ。
昨今は、フジテレビや反原発デモ、不買運動等、ソーシャルメディアの普及も手伝い、実に迅速に、効果的に市民が歩調をあわせて行動を取りやすくなった。抗議運動や市民運動を組織する上で、非常に役立っている。
その力は、中東の民主化の動きでも証明されている。
抗議ひとつとっても大きな力を持ちうる現代だからこそ、「品格」が一人ひとりにより求められる時代だと思うよ。
大義名分があって、そこに正義があれば、何をしても許されるわけじゃねぇ。それじゃ、大義名分かかげて戦争に血道をあげる国家といっしょだ。
そんな「下品」なことをしていれば、その大義がホントに正しく美しいものであっても、自らの言動が貶めることになってしまうだろう。
いま、3.11以降、オレさまたちの社会は大きく変わり、イロイロと「正しい」と思われる潮流が登場している。そうした動きに携わるのならば、尚のこと、主張の正しさだけでなく、言動の「品格」にも高潔さを付与していって欲しいものだ。
そうでなくては、その大義の正しさも、自分たちで唾をなすりつけ、地に落すことになってしまうだろう。
ま。そんな話だ。
デモにいくときは上品に振舞おうと思ったら、ぽちっとな。
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