叡智と真理を探究する者のために

最近の「スピリチュアル」は、目に見える価値しか信じていない。

はいどーも。天使にアッパーカットをかませる漢・オレさま独身貴族@リターンズでございますが、
ぽまいらはいかが年末の焦燥感に追われていやがりますか。



わたわたとせわしい世の中ですなぁ。3.11からほんと、イロイロと事件ばかり。
お隣じゃ親愛なるショーグンさまがご逝去されたとかで、「貴様にはヂゴクすら生ぬるい・・・!」
とケンシロウばりなコトを言って慟哭する方が多かったとかなんとか。



そんなわけで、それでも世界に比べたらまだまだ平和なこの国で、
「衣食足りてスピに手を出す」方々を見つめてつらつらと思うところをば。




で、だ。



世の中のスビセミナーが提供しているものって、


・ウン万円でオーラが見えるようになる。

・ウン万円でキミもヒーラー。

・ヒーラーになって稼げるようにする。

・うちにカネ払ったら、カルマ解除。


・・・などなどだよな。


まぁ他にもいろいろとあると思うのだが、これらってさ、考えてみるとすべて物質レベルの次元で
反映される「現象」の提供なんだよな。

(ホントに物質次元に現れるかどうかは別)


形態は単なる「利益提供」。サービス業だな。



つまり、金銭と交換。



いわゆる、「商売」。



ってことは、金銭を媒体にして、「御利益」を提供しているにすぎない。



受益者 ←金銭/利益→ 提供者



と、金銭という交換媒体を通して、利益(価値)が平行移動しているだけなんだな。



けどさ。



そもそも論だけど、スピリチュアルは、スピリトゥスというラテン語で、
これはさらに元々は「プネウマ」という「息吹、吹き込まれるもの」意味のギリシア語だ。



さらに言えばこの言葉は、ヒンドゥーの言う「プラーナ」であったり、ギリシア語のプシュケー(魂)
でもあったり、エーテル(気)でもあったりする。


(こうして書くと、単にエネルギーというよりも、神的知性がそこにあるようにも思われるだろ? 
実際、そうなんだ。話はそれるが、気とかエーテルと呼ばれるエネルギーはそれ自体、知性を有している。)



もちろんその主体は、「高き方」だ。



高き世界に目線を向けて、仰ぎ見て、自分がもしそれに値するならば、いつか「到来」し、
「もたらされる」恩寵があらんことを願うスタンスが要求される。


カネを払ったからとか、いっぱい努力したからと、理解したり報われるも限らないわけだ。
それでもなお、「高き方」を信頼し、
そこに近づこうと思う「心魂のあり方」が徹底的に問われることになる。




この問われる心魂の在り方として、もっとも基本となるのが、
畏敬の念と呼ばれるものだ。




しかし、このスピリトゥスが「スピリチュアル」となって日本に入ってきたのは、
いわゆる米国系の「ニューエイジ」カルチャーの文脈だ。



高き神性への理解を失い、よりポップに、かつアメリカ的なプラクマティズム
が混合された「使える」(つまり利益主義で唯物的)精神文化としての
「スピリチュアル」になってしまった。


まぁこれが日本に受け入れられたのも、日本人はもともと宗教に対しては
「ご利益主義」が根強かった、という背景もあるようだが。



とはいえ、古来のご利益主義は、神道的なものでいえば、
日本人なら誰もが抱く「自然物すべて神仏」みたいな感覚が表裏一体だったので、
そこまで堕することはなかった。



だが、米国由来のスピリチュアル・カルチャーにはそんなものはない。



よりプラグマティズム的なスピ文化であり、「ビジネスの文脈」で普及、
さらに自己増殖を試みる退廃的な唯物論の文化なのだ。



こんな浅薄なものがアメリカで流行ったのは
―成り立ちからして科学に重きを置く風土というのもあるが―
現代人がキリスト教を霊的文化として理解する力を失ったということであり、
日本人が浅薄にも受け入れたのは、
同様に神道や仏教の霊性の世界を感覚としても理解できなくなった、
ということを意味している。




だからはっきり言おう。



いわゆるナントカヒーリングだのなんとかリーディングだのといった
スピカルチャーに傾倒するのは、
「霊性への理解を失った人々」だからこそなのだ、と。



人はどうしたって、そうした目に見えない世界にこそ
「故郷」があると感じて近づこうとするのだが、
皮肉にも、唯物論に染められた浅薄な魂では、
本物の霊性文化を理解することができず、ハナから興味ももてない。



しかし、近づきたい衝動はある。



結果として、そんな心魂の状態でも理解できる浅薄な、
唯物論的霊性文化・・・いわゆるオレさまがここで言う
「スピカルチャー」にハマってしまうわけだ。



考えて見れば、哀しい話だ。



卑近な喩えだが、「美味しいものを食べたい」
というキモチは強いのだが、ほんとに美味しいものを舌が判断できず、
一流シェフの作った本物の料理をスルーしてしまい、
コンビニフードやファーストフードをありがたがっているようなものだ。



最近の子どもにはガチでそんな傾向があるようだが、
舌だけでなく、魂においてもそうなのは、あまりにもさもしいぜ。



そんな状態からでも、「本物」に触れ続ければ、
やがて本物の料理が「美味しい」と分かり始める。



最初は苦難でも、続けていくと分かるようになるのだ。



そもそも本物が分からないというのであれば、
自分の判断ではなく、「時の洗礼」に耐え抜いた古典がある。



時代を超えて、数え切れないほどの人々に吟味され、
なお生き残ってきたものにこそ真実がある。



文学においても「古典」が重視されるようなものだ。




もし、もし本当に、本物の霊性文化とはどういうものか。
と疑問に思うのなら。

自分は薄っぺらいスピカルチャーになんかハマるつもりはないと思うのなら。



古典的名著を幾つも、そして徹底的に読み込むことだ。



そうすれば、本物の力強さがわかってくる。
そしてそのとき、これまで魅力的に思えていた「スピカルチャー」が、
ひどく滑稽なものに感じられるだろうぜ。



どうせなら、本物志向で行こうぜ。



ま。そんな話だ。







                     訂正 1  

「あたいも魂に与えるものは一流の滋養にするわ!」なんて思ったら、ぽちっとな。(藁

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