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「いか超」4 礼賛の小道についての補講

前回の礼賛の小道について、
もう少しすすめましょう。

私たちは、対象がヒトであれ、知識であれ、事象であれ、
批判的に検討する姿勢をもっています。

それは合理性の一つの発露であり、
私たちの文明をここまで偉大に発展せしめたあり方です。
こうした批判力、判断力を発揮するあり方は、
それ自体は立派なものですが、この力を手にいれた代わりに、
代償を「高次の霊的認識」に対して支払わねばなりませんでした。


霊的認識を求める「礼賛の小道」で見出すべき知識とは、
批判・判断力といった合理理性で検討するものではなく、
「礼賛と賛美」によって自分のものとしていく領域なのです。

合理理性で検討するに相応しい知識があるように、
礼賛と賛美に基づく「畏敬の心」で向き合うに相応しい知識がある。

現代人は、すべてにおいて合理理性で向き合いますが、
それでは踏破できない、
あるいは踏み込むべきでない世界もあるということなのです。

どちらがいい、悪いではないのです。

夏と冬。

それぞれの世界には、
それぞれの世界にふさわしい服装があります。

同じように、
合理性で歩くべき領域と、
「畏敬の心」で歩くべき領域があるのです。

霊的世界で高次の認識を求めるものは、
まずそうした前提を心にとどめることが必要です。




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  • User Avatar ポチ さんより(21/10/02)
    ありがとうございます。 >基本的に「視覚的イメージ」を形成し、 >観察することに集中するんだよ。 >その結果、 >色んな崇高な魂の衝動や意味がわきあがってくる。 観察への集中、確かにここは欠けてるようです。 また、その結果得られた衝動や意味も、 祈る時は捨てて観察に集中するようにしてみます。 ありがとうございました。
    » ルドルフ・シュタイナーの薔薇十字瞑想について
  • User Avatar 加藤 夏樹 さんより(21/10/01)
    ポチ ども、夏樹です。 多分だけど、意味をイメージしすぎているんじゃないかな。 植物の光を求める衝動をキリストの父なる神への衝動にかさねて7輪の薔薇をイメージする、 十字架はもちろん贖罪の罪=私の罪で託して背負い、 十字架と薔薇の間にある私を含めた現存在の全体をイメージしてるのですが何かが違う気がいつもしてます。 とくにこのあたり。 こういう崇高なイメージは結果湧いてくるものであって、 視覚化においては 基本的に「視覚的イメージ」を形成し、 観察することに集中するんだよ。 その結果、 色んな崇高な魂の衝動や意味がわきあがってくる。 最初からそういうイメージをもって 挑むもんでもないんだ。 今度は映画を観るように 視覚的イメージだけに集中してみなよ。
    » ルドルフ・シュタイナーの薔薇十字瞑想について
  • User Avatar ポチ さんより(21/10/01)
    なつきさん こんばんは 薔薇十字の瞑想の時の最後の薔薇十字の表象の時に、上手くいきません。 植物の光を求める衝動をキリストの父なる神への衝動にかさねて7輪の薔薇をイメージする、 十字架はもちろん贖罪の罪=私の罪で託して背負い、 十字架と薔薇の間にある私を含めた現存在の全体をイメージしてるのですが何かが違う気がいつもしてます。 どこがダメだと思いますか?
    » ルドルフ・シュタイナーの薔薇十字瞑想について
  • User Avatar 加藤 夏樹 さんより(21/09/17)
    4年目さ。
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