叡智と真理を探究する者のために

なぜ復讐はダメなのか。

どーも。夏樹です。

今回は昔のメルマガからです。


とあるコメントからのネタを今回はテーマにしよう。


それはズバリ、
「なぜ復讐してはならないか?」というものだ。


結論はモチロンだめ。

復讐するは我にあり、なんてダメダメだ。

なぜなら、

どんなに正当化できるような理由があっても、

それはこの宇宙を貫く原理に反しているからだ。

 

1.なぜ復讐は原理的にダメなのか。

復讐1
質問者は女性で、幸い未遂に終わったが、
まぁ襲われそうになったと。

 

さらにそのあとの家族や加害者側等の対応で
非常に理不尽な想いも受けたようだ。


加害者や、
本来守ってくれるはずの家族にすら、
恨みが募る……。


まぁ単純に、
そんな恨みを抱えて生きるのは、
それ自体が自分へ毒を盛るようなものだ。


憎しみや怒りは自分への毒。


ネイティブアメリカンにそんなことわざなかったっけ?


上手いことを言う。


なのでまずシンプルにそう思うが、

相談者の知りたいことはもっと本質的なことなのだろう。


より本質的なことを言えば、

まず大前提として、

この世界そのものである「神」の性質としての「愛」と呼ばれる在り方は、

「ひとつになること」

という存在性なんだ。


ごくごく人間的なレベルに落とし込んでも、

誰かが誰かに「愛している」というときは、

心や体を共に過ごし、

ひとつになろうとするだろ?

つまり、そういうことなんだよ。

それこそが、普遍的な在り方、

方向性なんだ。

この宇宙を支える法則、諸原理は、

すべてこの状態へ向かうことを大前提として成立している。

 


2.すべては愛から生まれて愛に還る。

キャンドルと女性s
……ほんと、オレがこの言葉を使うと

ウサン臭くてイヤになるのだが、

ほかに言葉がねぇから困る……。


気を取り直そう。


だからいわゆる「倫理」と呼ばれる、

人が持つべき行動規範もまた、

どれだけ愛を表現しているか。


どれだけ分裂性よりも統合性を示すかということで、

その高度さは見て取れる。


そうして俯瞰的に見ていくと、

「争い」であっても、

「憎しみ」であっても、

「復讐」であっても。


そのベクトルは、

「分裂」「対立」「破壊」ext……と、

「ひとつになること」から遠ざかることが分かる。


反対だな。


あえていえば、
それが「間違った」選択なんだ。


オレたちの住むこの三次元世界において正しい選択とは、

この「ひとつになること」に沿う選択なんだ。


そして学びの三次元だからこそ、
自由に分裂性の選択をもオレさまたちは選ぶこともできるのだが……。


もちろん、
この三次元世界では困難なことは分かる。
ここは相対性の世界だ。


この相対性の中で、

精一杯、

「ひとつになること」へ近づく在り方を自らの努力においてしなくてはならない。


この努力が、

生きることそれ自体が霊性を高める修行なわけだ。


余談だが、

よくいろんな神秘家は人間の方が天使や大天使たちよりも高度だ、

というのはまさにこの点にある。


オレたちは自由意志の結果として善でも悪でも選択できるが、

この中で自らの意志で「善」を掴みとろうと努力する。


ここが偉大なのだが、

大天使どもはそれ自体が善なる法であり、力だ。


そもそも、

善しかできない。

そこに意志はないんだ。


だからこそ、自ら考えて行動して、

その上で善を選ぶ人間のほうがずっと高度であり、

「神のひとり子」と言われるゆえんだ。


お、余談がすぎた。

話を戻す。


で、相対性の世界ゆえに、

自分が調和や一体性を求めても、

際限なく「分裂」「対立」「破壊」

のベクトルが先方から迫ることもあるだろう。


しかし、

目指すべき方向性(愛、統一性)が分かっているならば、

できる限り、そちらに向かうべきだ。

破壊的ベクトルに対して破壊的ベクトルで相手に向き合えば、

それは衝突し、火を注ぐというもの。

相手を破壊するのか。

状況を破滅させるのか。


あるいは、己の心を壊すのか。


いずれにしても、

剣を取る者は剣に滅ぶのだ。


自分が正しい選択をしても、

相手が正しい選択して報いてくれるとは限らない。


それがこの世界の難しいところであり、

哀しいところだ。


だが、


それでもオレは、

たとえ報われずとも、

おまいが「正しい」選択をすることを願う。


その報酬は、

心の平安とただ神に一歩近づくという形で、

神より受けるだろうから。


ま。そんな話だ。

 

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
■編集後記
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

正しい選択というのは、

いつだって困難だ。


まったく分からないこともあれば、

頭でわかっていても、

感情が正しい選択を許さないこともある。


昔読んだ「神との対話」にいいフレーズがあった。

迷ったら、自分に問うんだ。

確かこんなカンジだ。

「それは私か?」

「これは愛だろうか」


最高version、もっともこう在りたい自分ならどう選択するか。

「愛」と呼ばれる在り方に相応しい選択ならどうするか。


そんな風に己に問いかければ、

きっと答えは出る。

そしてその答えを選び取る意志の強さ。

そんな強さを備えていたいものだな。

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コメント

    • ジョバンニ
    • 2014年 11月 29日

    先日のエントリでのYさんの逸話で、一度目の成功の時は「イケイケドンドン浄化無し」で
    事を進めたことで「失敗」という「罰、債務履行」が「宇宙(または神)」から与えられましたよね。
    この話を読んでふと思ったんです「宇宙、フィードバックはやくね?」って
    たかだか経済活動でソッコー「罰」が下るのに、殺しとかの重篤な「罪」を犯した連中に
    「天誅」とおぼしき「罰」が下るのを見聞したためしがなく…
    一体この差はなにが元でおきるのですか?
    あらゆる事象に「宇宙からのフィードバック、天誅」が「迅速」に行われたなら「復讐者」は生まれないのでは?
    と考えてしまいます。

    • アバター画像

      >ジョバンニ

      まず1つ。カルマの働きは実に不思議だ。
      いつどのように作用するのか。
      おれにはわからん。今世かもしれないし、3つ先の転生かもしれない。

      そしてそれは、「罰」ではない。

      あくまでも、
      その人を「神に近づける」ために働く。

      たとえば、Aさんが人を10人殺した。
      彼は次の人生で、虐げられる人生を送った。

      Bさんも10人殺した。彼は次の人生で、医者となり、
      貧しい者には廉価で診てやり、
      医師としてひたすら人を救う人生を送った。

      こういう返し方もある。

      「天と地の間にはお前の哲学では思いも寄らない出来事がまだまだあるのだ。」というやつさ。

    • ジョバンニ
    • 2014年 11月 29日

    返信ありがとうございます。

    >まず1つ。カルマの働きは実に不思議だ。
    >いつどのように作用するのか。
    >おれにはわからん。今世かもしれないし、3つ先の転生かもしれない。

    カルマって、もっと乾いた「関数」みたいなものだと思ってましたが、
    個別にカスタマイズされて適用されたりするんですね。

    >そしてそれは、「罰」ではない。

    それが「計らい」だと気付けるなら、第一段階クリアといった感じですかね。

    >たとえば、Aさんが人を10人殺した。
    >彼は次の人生で、虐げられる人生を送った。
    >Bさんも10人殺した。彼は次の人生で、医者となり、
    >貧しい者には廉価で診てやり、
    >医師としてひたすら人を救う人生を送った。

    Aさんはともかくとして、Bさん自身はどの様な方法(若しくは何の加護)で
    自己奉献の人生を見出す事が出来たと推察できますか?

    お手数ですが、ご教示いただけましたら幸いです。
    よろしくお願いします。

    • アバター画像

      >ジョバンニ
      ごめん、レスを失念していた。

      >Aさんはともかくとして、
      >Bさん自身はどの様な方法(若しくは何の加護)で
      >自己奉献の人生を見出す事が出来たと推察できますか?

      同じような罪のハズなのに、
      Aさんと比べて、
      一見Bさんは「幸せな」返し方に見えるのは何故だろう、
      といったところだろうか。

      たとえ話をここで詳細に分析することにどれだけ
      現実との差異があるかわからんが、
      こういうことではないかと思う。

      現象としては二人とも「殺人」を犯し、その返済の人生なわけだが、

      Aさんはもしかしたら、「兵士として人(敵)を倒し、虐げた」のかもしれない。

      Bさんは、もしかしたら「倫理はともかく、上官命令だから仕方なく」人を殺したのかもしれない。

      そのときの罪を犯した動機、環境、これまでの人生、
      その人の霊の到達度、
      ありとあらゆる要素が検討されたうえで、

      「その人が神(愛)に近づくために、最適の環境」へと導かれる。

      だから人によって課題が違うので、
      学び方も、環境もまるで違うように見える。

      その良し悪し、重い/軽いといった見え方、
      人では推し量れるものではないのだ。

      すべては法則というシステム、
      そして管理者たち―ある大天使たち―によって、
      厳正に一人ひとりに適用され、
      人生は導かれる。

      そんなところさ。

    • ジョバンニ
    • 2014年 12月 05日

    加藤夏樹さま

    >ごめん、レスを失念していた。

    とんでもないです。
    お忙しいなか、ご返信感謝します。

    >すべては法則というシステム、
    >そして管理者たち―ある大天使たち―によって、
    >厳正に一人ひとりに適用され、
    >人生は導かれる。

    「Bさんの様な生き方」についてお聞きしたかったのは、まさに
    この「導かれる」の部分なんです。

    Bさんは「自由意思」があり、かつそれを用い「医師」という人生を選択しワケですよね。
    (もっとも現象として「医師」なだけで、本質が「自己奉献」に繋がるならどんな「道」を選択するのも
    アリなんでしょうが…)
    Bさんの「自由意思」は、ヤクザ者、ニートでさえも選択できた。
    なのに、Bさんは「医師」になる道を見出せた。
    その「衝動」が何処から来るのか?そこがお聞きしたかったのです。

    • アバター画像

      >ジョバンニ

      なるほどなるほど。
      OK、では回答していきたい。

      >「Bさんの様な生き方」についてお聞きしたかったのは、まさに
      >この「導かれる」の部分なんです。
      >Bさんは「自由意思」があり、
      >かつそれを用い「医師」という人生を選択しワケですよね。
      >(もっとも現象として「医師」なだけで、
      >本質が「自己奉献」に繋がるならどんな「道」を選択するのも
      >アリなんでしょうが…)
      >Bさんの「自由意思」は、ヤクザ者、ニートでさえも選択できた。
      >なのに、Bさんは「医師」になる道を見出せた。
      >その「衝動」が何処から来るのか?そこがお聞きしたかったのです。

      その導きはどこから来るのか。

      一人ひとりの魂だよ。
      その奥底だ。
      そこは、「根源」と繋がる領域がある。

      そして実際の衝動、閃きは、複数の経路をとって現われる。
      想像もつかないルートをとる。

      まず、聴いたことあると思うけど、
      人には「守護天使」と呼ばれる存在がいる。
      仏教?では生まれ年によってナントカ菩薩が守り神になる、
      みたいに言うヤツ。

      オレたちの体系ではそれは大天使メタトロンと捉えているが、
      詳細はおいておくとして、
      そうした一人ひとりの人生に寄り添う神的存在が、
      ここぞというときにインスピレーションを与えてくれる。

      彼らは、守護する人のカルマも人生も、
      すべてを見通しているからな。

      しかし、人は無視したり、
      他の判断を優先したりする自由もあるが、
      とにもかくも、導きがある。

      また、高次の自分からのインスピレーションもある。
      「現在の人格」の先には、
      「永遠の人格」としての神たる自分がいる。
      とりあえず、わかりやすく、俗にいう「ハイアーセルフ」でもいい。

      そこでは人生の目的、
      カルマを見通した自分がいる。

      そんな、
      本当の自分からの「閃き」がフッと心にわいてくるときがある。
      もちろんこの閃きを無視することもままあるのが人生だ。(笑)

      そしてまた原因と結果の法則(カルマの法則)は、
      物理法則でもある。

      実際、この法則の3次元的現れが、
      世の中の物理学だ。

      つまりシステマチックに働く。
      すると、
      「なんとなく」身体が動く。
      「筋肉」に作用する。
      (※シュタイナーの神秘学的に「筋肉」はカルマの影響を最も受ける器官の一つと捉える)

      たとえばだけど、
      普段いかない場所に「なんとなく足が向いて」事故にあう、
      あるいはカミナリに打たれる。

      それはまさにカルマが筋肉に作用して、
      身体にそんな行動を取らせてしまった例だ。

      あるいは、
      おまえさんが「なんとなく」散歩に出て、
      独り言をふと言ったとするじゃん。

      すると、その一言が耳に飛び込み、
      「人生に大きな閃きを得た」なんて人もいるかもしれない。

      人生には、
      そんな風に色んな導き、導かれ方がある。

      それは一人ひとりのカルマに応じて、
      その者を霊的に進化させるというベクトルがある。
      そして自由意志と共存する。

      心の中に湧き上がる衝動、閃き。

      そうしたものは、
      本当によく向き合う必要があるな。。

      そこはまた、
      別のはなしだが。

      まぁそんなところ。

    • Ryo
    • 2018年 12月 16日

    読ませていただきました。

    一つ感じた疑問は
    では憎しみを抱いた時
    破壊したい、その人から離れたいと思う願望は
    どうして生じてしまうのでしょう。

    • アバター画像

      Ryo
      ども!コメントありがとよ。
      そうだな、その問いはむしろ心理学の範疇のように思うが、
      まぁあくまでもおれの考え方、ということで。

      そのときのシーンでも違うだろうし、そもそも目的があるんじゃないか?すべての感情や欲求にはさ。

      一見、「憎しみ→破壊」という情動が生じたとしても、おれとおまえさんではきっと違うはずだ。

      おれの場合は、「この人は、おれが見たくないことをおれに見せつけ、リアルなおれ自身の真の姿を見せつける」から憎み、怒り、離れたいのかもしれない。

      おまえさんの場合は「この人はなぜおれの言うことをいちいち否定するのだ?なぜおれの正しさがわからんのだ?」と、自分は正しいというエゴイズムを否定してくるから憎み、怒り、離れたくなるのではないだろうか。

      という具合に、人によっても異なる、状況等によっても異なる。
      しかし感情・欲求には目的性があるはずなので、そこを理解すれば質問にも回答がでるのではないだろうか。

      という回答はどうだろうか。
      「そういうい意味で聞いたんじゃないー」というときはまた聞いてくれい。

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