判断と論理理性。ちょとボヤきw
いやはや。最近、バタバタとしていたもんでさ。仕事でもプライベートでも。仕事は言うに及ばずだが、プライベートでもロジカルにおかしいことを言ってるのだが、「オレさまはコレについては分からないだろうけど、」と自分が得た理解を上位に置きたがるスピ系によくお目にかかりがちな言動を見つめる経験を得てしまった。w
だが、仕方がないのかもしれない。改めて考えてみると、「論理」ってヤツはそれ自体ヘヴィな学問体系だし。
日常生活レベルでは、「論理的に考え、筋を通す」ということは普通に誰しも行っている。そうでなくては、「判断」などできないからだ。
普通、人は帰納法的思考をよくするんだ。ごくごく簡単に言ってみよう。
「Aさんが私をバカと言った」
「Bさんもバカと言った」
「Cさんだけは普通と言った」……(事例の収集)
そこから導き出される答えは?
と、やっていく。
Aさんが私をバカと言った。(判断材料1)、
Bさんもバカと言った。(判断材料2)
・・・・
という、判断材料への解釈は固定的だ。必然、導き出される答えも限定されたものしかない。この場合、友人A~Zの発言を拾い、1/3が普通といい、2/3がバカと言ったらせいぜい「私の友人の66%以上が私をバカと思っている。」ということか。w
そこで、帰納法的思考にあわせて、先に答え(命題)を幾つも想定しておいて演繹的に考えると、一気に得られる回答の幅が広がるので、あわせてそうする。たとえば、上記の例では「私はバカではない」という命題を成立させるには?
その上で「判断」を積み重ねてみるというのもテだ。つまり判断とは「認識可能なこと」、「自明なる証拠」がいるわけだ。
ところで、この「自明なる」がクセモノだ。数学の世界ならともかく、リアルで適用するならば、人聞きの情報だけでは、もちろん自明とはいえない。だから既存の判断材料に対して、「こう解釈することはできるか?」「さらに他の判断材料を求めるべきだ」とか、帰納法的思考だと変わらなかった前提に対してさらにいろいろと考察を加えることを思考的に強制される。
その上で成立する命題を残しておく。その他は、どうしても成立しないなら、「いや、こっちの可能性がある。つかこっちが真実じゃね?」と思っても、本当は「コレは判断不可」、「現時点ではコレは保留」にしなくてはならないことなんて幾らでもある。
ロジックが甘いと、いとも簡単に「ほんとは判断不可」「判断材料たりず。保留にすべし」といったことまで判断してしまうのが人なんだけど。
それぞれの訓練・習慣を経ていないと実はかなり難しい。(っていうかめんどくさいw) それにどこの筋が通っていないのか、自分ではなかなか分からないものだ。だから論理の破綻、矛盾は容易に起こり、分けてはいけない問題を「それとコレとは別」と平気で分けてしまったりもする。
そもそも『逆・裏・対偶』に慣れていないと、論理的に考える、ということ自体おっくうだしな。
そして、一つの結論を得た。
「人は結局、自分の好みのことしか見ないし、考えない」と。
ぽまいらも。せめてたまには「逆に考えると・・・」くらいはクセにおくといいぜ?
ま。そんな話だ。
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