叡智と真理を探究する者のために

「いか超」2 叡智を追い求めるなら、いかなる障害も恐れないということについて

「いか超」の学習2回目です。


早速、前回の続きを考えていきましょう。


我々は、自分の中にまどろんでいる高次世界を認識する力を獲得するために、
そのための知識を学ぶに相応しい「条件」を獲得する必要がある、
と前回触れました。


「秘された叡智」を真摯に学ぶなら、真剣な態度を求められます。


もし、あなたの求めが真剣で誠実なものであるのなら、
私たちに障害はありません。


通常、私たちは教育のチャンスを制限されることがあります。
経済力や国籍など、外的な要因です。
しかし、秘教の叡智にはそのような制限はありません。


人類に普遍的に与えられているギフトであるからこそ、
そのような障害はあってはならないのです。

(※だからこそ、不当に高額なスピリチュアル・セミナーの類は、
それだけで、経済力という差別を与え、あるべきでない差別を内包しています。
もしあなたが、こうしたことを仕事として携わっているのなら、
経済力によって不当障壁を作っていないか、よく検討してください。)


しかし同時に、「秘教」といわれるように、
どれだけ求めようとも、もしあなたが条件に適わなければ、
叡智への扉をあけることは不可能でしょう。




あなたは、まず自分にまず約束しなければなりません。

「私の叡智への、真理への渇望は本物である。真摯に追求を続け、
相応しいと私の運命を見つめる何かが判断してくれるので、
たとえ十年でも二十年でも静かに待ち続け、孤独に探求する用意がある」と。


あなたのその決意や態度が本物であるとき、
必ずやあなたは運命に導かれ、
本当に知識を与えてくれる導師やその役割を担う存在に出会うことになるのです。


そしてあなたが霊的な道に出会うために必要なのは、
魂のある基調、態度です。


それを「いか超」では、「礼賛の小道」と呼んでいます。


次回は、礼賛の小道について、触れていきましょう。


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  • ポチ { とっても共感します。 キリスト教ではキリストに似る、であったり創造を完成させることがゴールですが、キリストは創造を完成させるために受肉と贖罪とその後の継続的な働きかけを行い、創造の完成は「(自我の束を含む)この社会」を指してるわけなので、社会運動に参画せざるを得ない。 それをキリスト教で一番端的に表現しているのがプロテスタントなんだろうと思います。 アメリカは理想と現実の狭間で矛盾だらね。でも彼らはだからといって理想を捨てることはありません。 }
  • 加藤 { いえいえ。お役に立てていたら幸い・・・! }
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