同じものを読んでも、同じものを学ぶとは限らない。
どーも。
オレさまです。
さて。
よく思うところだが、書籍だろうがメルマガだろうが、
「読んで」学ぶということについて、オレさまは非常に重視している。
自分の先生―愛称ダンブルドア―がまぁ学者だったこともあり、
シュタイナーもそうであることから、
「思考」というものを重視しているからだ。
とりわけ大事なのは、
単に知識を獲得することにとどまらず、
書き手の「思考」を読み取ることと、
言葉による叙述の描く先の理念(イデア)を観照することにある。
しかしながら、
思うところは、「読み取る内容」の個人差が非常に多い。
人それぞれ受けた教育、社会的(職業的)立場が違うので、
自然と焦点があたるポイントに違いが生じ、
結果として受け取る内容に差がでるのも当然ではあるだろう。
だが、残念に思うのは、
「自分の都合にいいように読み取る」ケースが非常に多いということ。
それは自分にとって効果的に利用するためには必要なこともあるだろうが、
あくまでもその著者の描きたかったことを十分受け取ってからの話ではないだろうか。
オレさまがこういうことをふと思うのは、
たとえばダスカロスの著書を「法外の有料ヒーラー」や「エセチャネラー」が引用し、
さも自分も「ダスカロスに共感する」といった体で語っている。
そんなケースをスピ業界でチラホラ見る。
なんだかなーと。
ほんとにちゃんと読むべき点を読んで、
イデアを受け取ったのかな?と思う。
読書ってのは、
それ自体で主要な「神秘行」になる。
「魂の気分」といった、
己の「在り方」について大きく影響を与えるからだ。
人は、見たいものしか見ず、
信じたいものしか信じないという。
だが、「学ぶ」とは、
そんなスタンスではいけないはずだ。
ま。
そんな話だ。
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