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傾聴―「気づいた」と「気づか“された”」の間には、越えられない壁がある。

はいどーも。オレさまです。今回は(も?w)、いささか伝わりにくいだろう内容だ。



カウンセリングやスピリチュアル・ティーチング、あるいは教育などに携わるヤシらに関係するといえる。



さて。神秘家は大抵、霊性の道においては、「内省」が最重要だと言う。



だがしかし。オレさま、ダンブルドアに内省を強く指導というか促されたことはない。対面的に導くというか。もちろん「ちゃんと毎日やれよー」とか方法論のチェックをされたことはくらいはあるよ。でも、それだけ。



ダスカロスのルポタージュであるメッセンジャーを読んだことあるヤシで、気づいたヤシはいるだろうか?



ダスカロスもあれだけ内省は大事と連発しておきながら、メッセンジャーシリーズの著者は一度たりとも、ダスカロスによって内省を厳しく指導されている光景を描いていない。弟子でもあったにもかかわらず。告悔wのようなものすら、行ってはいない。



シュタイナーのエソテリックスクールも同様だ。瞑想の実践、霊学の勉強などはするが、そんなことはしていない。「導師と弟子」がかわす「霊学的対話集」ともいうべき『いか超』においても、やっぱり、ない。




なぜだろう。みな口先だけで内省の重要性を語っていたのだろうか。



さて。話は一見、ズレるが。



傾聴、というものがある。「モモ」をよく引き合いに出して、傾聴についてオレさまは触れてきた。モモに聴いてもらっていた人たちは、「自然と気づきを得て、素晴らしい着想を得たり、癒されていく」シーンがいきいきと描かれている。



別にモモは、その人にわからせよう、悟らせようとして、上からの圧力で内面とむき合わせたのではない。



モモ・・・というか、作者の人智学徒ミヒャエル・エンデは当然のように知っていたのだ。



そんなことをしては、心は一時逃避をして、自分や指導者が気に入る答え、納得しそうな答えにポンと飛びついてしまう。結果、それは浅いものとなり、三日もすれば元の木阿弥となるようなニセモノの気づきだ、と。


(いや、浅い、ニセモノなだけならまだいいんだ。もっと怖い結果にもなるが、それは後半ふれる)



だから禅でも同様で、徹底的に自己に深く沈潜していけるように、導師は矛盾律のかたまりのような公案―というんだっけか?―を伝え、あとは放置プレイだ。また浄土真宗だったか? 内観のもとになった『身調べ』という行法もやっぱり方法論を伝えはするが、あとは個々にゆだねられた。



行の中身というか「内」への踏みこみ方というのは非常に注意されており、聴きはしても、決してこちらが指向性を与えないように注意したんだ。だからすべての弟子に対して中立であるように、形式化された「問い」はあるが、個々人に「おまえのそれはどうなんだ」とつっこんでいくことはしないのだ。



神秘家と呼ばれた連中は、そうしたことをよく分かっている人たちだった。シュタイナーは実際に教育者でもあったように、彼らは人の魂の発達論というものをわきまえている。本当に人の成長を促すための方法論―それは同時に霊学的な行法論と同じでもあるが―を体得している人たちだった。



だから彼らは、内省の重要さは語るし、方法論はいくらでも語った。弟子が相手であれば神秘学の知識はいくらでも語るし、実践も指導した。だが内省は“内”において省みるものであるがゆえに、方法論を指導するが、あえて深く立ち入ったり、プレッシャー的に問いを投げつけて即時答えに至らせるような真似はしなかった。



弟子を愛していればなお更手を出したくなるようなところも、ことこの領域においては、本人が自らの内で“気づく”“わかる”ように注意深く見守った。決して、外的働きかけで“気づかせる”“わからせる”ことはしなかったのだ。



ちなみにもし「わからせる」ためにを師が問答を上から繰り返すとどうなると思う? 



洗脳された信者ができあがりますw これ、カルトのやり口と一緒だな。



企業の研修会でも昔あったろ? 数日間缶詰で自己批判wwをさせ、結果、自分の価値観がブッ壊れていくアレ。「私が間違っていました! わたしは自分の間違いに気づくことができました!!(号泣」なんてなるわけですわ。 サヨク系もよくやっていたんじゃなかったっけ。w



極端だが、そういうことになる。内省も、ほんの少しやり方を間違えると、結果の方向性は全然逆方向にいってしまう。まして、カウンセラーなど「対話」によって人の心を癒そうとしたり、気づきを与えようとする連中は、ほんとに注意しておかねぇと、自分でも気づかぬうちに対話者の心を、単に自分が正しいと感じている方向へミスリードさせかねんのだ。 ゆえに「聴く」ということは、モモのようなインスピレーション認識と呼ばれる段階でなくとも、「傾聴」と呼ばれる「技術」として確立している。



つまり学び、習得する必要がある体系なのだ。それだけ、深い。



対話相手に、自分の力で答えをゲットしてもらう方法論(とその意味を)を知り、それを実践できねぇとな。



人の心を扱うってのは難しく、そして怖ろしい。




ま。そんな話だ。




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はいはい。そんなワケで。オレさま主催の『神秘学講座 基礎編』の案内だ。


↓ここ見ておくんなまし。参加してみっか、という奇特なヤシはどうぞ。


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  • User Avatar ポチ さんより(21/10/02)
    ありがとうございます。 >基本的に「視覚的イメージ」を形成し、 >観察することに集中するんだよ。 >その結果、 >色んな崇高な魂の衝動や意味がわきあがってくる。 観察への集中、確かにここは欠けてるようです。 また、その結果得られた衝動や意味も、 祈る時は捨てて観察に集中するようにしてみます。 ありがとうございました。
    » ルドルフ・シュタイナーの薔薇十字瞑想について
  • User Avatar 加藤 夏樹 さんより(21/10/01)
    ポチ ども、夏樹です。 多分だけど、意味をイメージしすぎているんじゃないかな。 植物の光を求める衝動をキリストの父なる神への衝動にかさねて7輪の薔薇をイメージする、 十字架はもちろん贖罪の罪=私の罪で託して背負い、 十字架と薔薇の間にある私を含めた現存在の全体をイメージしてるのですが何かが違う気がいつもしてます。 とくにこのあたり。 こういう崇高なイメージは結果湧いてくるものであって、 視覚化においては 基本的に「視覚的イメージ」を形成し、 観察することに集中するんだよ。 その結果、 色んな崇高な魂の衝動や意味がわきあがってくる。 最初からそういうイメージをもって 挑むもんでもないんだ。 今度は映画を観るように 視覚的イメージだけに集中してみなよ。
    » ルドルフ・シュタイナーの薔薇十字瞑想について
  • User Avatar ポチ さんより(21/10/01)
    なつきさん こんばんは 薔薇十字の瞑想の時の最後の薔薇十字の表象の時に、上手くいきません。 植物の光を求める衝動をキリストの父なる神への衝動にかさねて7輪の薔薇をイメージする、 十字架はもちろん贖罪の罪=私の罪で託して背負い、 十字架と薔薇の間にある私を含めた現存在の全体をイメージしてるのですが何かが違う気がいつもしてます。 どこがダメだと思いますか?
    » ルドルフ・シュタイナーの薔薇十字瞑想について
  • User Avatar 加藤 夏樹 さんより(21/09/17)
    4年目さ。
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