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醜悪なスピ

はい、どーも。記事更新です。ひさびさです。


え? また講座サマリー?


いえ。今回は基本的に前回と同じなので。前回からコアスキルに入っているので、欠席者が一人でもいたときは先に進まず、全員の進歩の歩調をあわせている関係で。


「それやってないんだけど・・・」というまま先に進みたくない領域なので、歩調を緩めてるんだ。



それはさておき。



いやはや。世には醜悪なスピ系は多けれど、その最たるものは「洗脳」しにかかってくるヤシらだな。



「あなたは間違っている」「あなたは考えることがまだまだ多そうですね」なんて超上から目線の何様だ、ヴァカ!wwな態度を恥ずかしくもなくとって、畳み掛けてくるときたもんだ。




まぁいろいろと思うところはあるが。



「いか超」なんかを読むと、指導者は、弟子の意思決定に干渉しない態度で教えることを求められる。本人の自由意志の学びを尊重するわけだ。



そのために、神秘学上の教えや理論、考え方なんかを指導するけども、弟子にそれを強要、押し付けるようなことは決してしない。



現代でいえば、控えめな大学のゼミの指導教授の如き指導だ。



中には、どれだけ丁寧に教えて、手本を示し、理論を説明し、やってみせ・・・と指導しても、単なる知的満足で終えてしまう弟子もいる。それでも、押し付けがましい態度で指導はしない。



ましてや、師の提示するモンに「それおかしくね?」とちょっと異を唱えただけで、「あなたは間違っています」と畳み掛けるだのなんだのと、プレッシャーをかける堕ちた行動は決してしない。



してはならない。



シュタイナーも、ダスカロスも、ダンブルドアも、オレさまの敬愛する神秘家はもちろん、誰一人としてそんなことはしない。こうした霊学的な道で人に何かを伝える立場のヤシらは、まっとうなのは決してそんなことはしたりせんのだ。



それをしては、教祖への同調と服従を表に裏に強要する、カルトと一体なにが違うのだろう? 



閉鎖的な井戸端会議の主婦コミュニティーといったい何が違うというのだ?(これは冗談だがw



しかし、世のスピ的コミュニティはネットであれリアルであれ、「集団」となってくると、そんな傾向があからさまに出てくる。いや、スピな領域だと精神的な、霊的な教え、概念、理論、そうしたもんが背景にあるから余計拍車がかかるかもしれない。



いま、セミナービジネスを中心としたスピな連中の多くは、ヘンな独学だったりなんだったり。大半が、伝統的なしっかりした霊的伝統性の学びをしたものではない。



そういう危ういのが、指導者的立場で乗り出していくと、ほんとに結果は哀れなものだ。



改めて、この道は怖いな、と思うよ。



ぽまいら。



カルトというのは、中に入っているときは、ほんと、自分ではわからないものだ。その空間で共有されるロジックなりなんなりが正しいと思う。気がつけば、教祖の思想的コピーだ。



そしてマジ怖いのは、いいかね、あるミッションのために完全に調査員としてカルトにもぐり込んだだけのオレさまであっても、同調しかけたんだよ。付き合いが長いと。


世の組織・・・例えばオウムでさえ、狂信的なカルトというのが正体であったにもかかわらず、世の宗教学者がだまされた。教えだのなんだのは、伝統的で、正しい内容をふんだんに用いていたからだ。



そのように「正しく見える」点がいっぱいある。中にいれば、そうした正しさや価値ある内容の部分にだまされてしまい、「いいじゃん、ここ」と思ってしまう。



逆にいうと、「すべてが完全に間違った悪の組織・団体(人)」なんてのは、漫画の中にしかいない。いや、いまやそんな子供だましな漫画すらないかもな。



オレさまも、そんな意味で、好意を調査対象のカルトに覚えかけたともある。それを察したダンが、「もういいからヤめろ」と何度か言ったことがあってな。っと、話がそれた。



それだけに、はじめから共感して入ってしまえば、ますます気づかない。ただ、外部の人間には「キモイわー」というのはよくわかるんだけど。


ぽまいらも気をつけろよ。


もし、おまいが学ぶ先、付き合う先のすぴなところが、過剰な同調や「間違った考えを正すように」と畳み掛けてきたら、それはおまいの「精神の自由」に不当干渉をしている。それは霊的にまともなヤシの行動ではない。決して。



ましてや、ちょこっと反対意見を述べただけで、ギャンギャン畳み掛けてくるようなのは・・・いわずもがなだ。



気がついたら、おまい自身が堕とされることになっちまうからな。



いまのスピな世界は、そんなのがゴロゴロしているぜ。



ま。そんな話だ。

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  • User Avatar ポチ さんより(21/10/02)
    ありがとうございます。 >基本的に「視覚的イメージ」を形成し、 >観察することに集中するんだよ。 >その結果、 >色んな崇高な魂の衝動や意味がわきあがってくる。 観察への集中、確かにここは欠けてるようです。 また、その結果得られた衝動や意味も、 祈る時は捨てて観察に集中するようにしてみます。 ありがとうございました。
    » ルドルフ・シュタイナーの薔薇十字瞑想について
  • User Avatar 加藤 夏樹 さんより(21/10/01)
    ポチ ども、夏樹です。 多分だけど、意味をイメージしすぎているんじゃないかな。 植物の光を求める衝動をキリストの父なる神への衝動にかさねて7輪の薔薇をイメージする、 十字架はもちろん贖罪の罪=私の罪で託して背負い、 十字架と薔薇の間にある私を含めた現存在の全体をイメージしてるのですが何かが違う気がいつもしてます。 とくにこのあたり。 こういう崇高なイメージは結果湧いてくるものであって、 視覚化においては 基本的に「視覚的イメージ」を形成し、 観察することに集中するんだよ。 その結果、 色んな崇高な魂の衝動や意味がわきあがってくる。 最初からそういうイメージをもって 挑むもんでもないんだ。 今度は映画を観るように 視覚的イメージだけに集中してみなよ。
    » ルドルフ・シュタイナーの薔薇十字瞑想について
  • User Avatar ポチ さんより(21/10/01)
    なつきさん こんばんは 薔薇十字の瞑想の時の最後の薔薇十字の表象の時に、上手くいきません。 植物の光を求める衝動をキリストの父なる神への衝動にかさねて7輪の薔薇をイメージする、 十字架はもちろん贖罪の罪=私の罪で託して背負い、 十字架と薔薇の間にある私を含めた現存在の全体をイメージしてるのですが何かが違う気がいつもしてます。 どこがダメだと思いますか?
    » ルドルフ・シュタイナーの薔薇十字瞑想について
  • User Avatar 加藤 夏樹 さんより(21/09/17)
    4年目さ。
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