【スピリチュアルと傾聴】魂を沈潜させる―「心で聴く」こと。
はい、どーもー。
オレさまです。
ええ、そうです。
あなたの夏樹です。
崇めなさい。
・・・・さて。
冷たい視線をものともせず、今回は、過去のメルマガ編集加筆トークです。
お題は、【スピリチュアルと傾聴】の視点から「魂の沈潜」です。
魂を沈潜させるということ
先日、シュタイナー系を勉強している人からこんな質問があった。
シュタイナーによく出てくる、対象に「魂を沈潜させる」ということの意味がよくわからない、と。
神秘学の勉強・行法に取り組んでいると、よくこの表現にブチあたる。
そこで以前に書いたこの記事を参考にする。
まずは、抜粋する。
(ここから)
そんなわけで。
先日ふとした話から、「かぼちゃ」の霊視に挑戦していた。
かぼちゃがいかに人の健康に益するか、という視点での霊視への試みだ。
まぁオレさまは比較的植物と相性がいいのかやりやすいし、何よりあとでググるなりして調べれば、正しいか否かが分かる。
何より、誰も傷つけることはねぇ。
そんなわけでオレさまの結論としては、「血液の流れをよくすることでの体力回復や、肌をきれいにする効果があるんじゃね」。
あとは「タネの方が実よりも健康への効果は高いんじゃねぇの?」
というカンジだった。
その他の点としては、何かしらのガンにもいい気がしたんだが、自信はなかった。
で、調べてみた。
参照。(リンク先、安全性に問題あるためリンク削除)
はっはっ。
思いのほか合ってるぢゃねぇか。
だが、上記のサイトにはとくに
『便秘を改善し大腸がん・
糖尿病の予防効果
がある食物繊維、
体内に蓄積されたナトリウム(塩分)
を排泄し、高血圧を防ぐ』成分も
多く含まれていることを示している。
ここまではよく分からなかった点が未熟だな。
むしろこのへんの方が効果としては重要だと思うんだが。
ふと思い出したんだが、神秘家のダスカロスなんかは、ある病気を治すために、その波動を打ち消すように、反対に波動している植物(野草やら野菜やら)を見つけて治療に役立てていたようだ。
古い薬草師なんかは、直感的にそうしたことが分かったのかもしれない。シュタイナーの兄弟子のフェリックス・コグツキーは薬草師だった。しかもどうやら、植物のしうした神秘に通じていたようだ。彼はきっと、自然の言語を聞く霊の耳を持っていたのだろう。それはイマジネーション認識(霊視)を超えた認識方法、インスピレーション認識(霊的読解)だ。
わけのわからぬアチューンメント系のエネを流すより、こうした野草だの野菜だのを効果別に判別・整理していったほうが、よほどいい食事療法を病めるヤシに提供できるんじゃねぇかと思った次第。
(重要なのはココから)
では、具体的なプロセスとして、
「かぼちゃ」の霊視とはどういうことか。
基本的に、対象を「分かる」ためによく行われるのが、「魂の沈潜」から入る一体化だ。
瞑想訓練でもよく行われるが、ある種の効果のあるシンボルに集中して沈潜する。
どうすれば、沈潜したことになるのか。
たとえば、部屋でも道端でもいいが、
適当な草花をよーく思い出してみるといい。
姿形、色、香り、
花弁の細かい色合いのグラデーション・・・。
できるだけ、細かく。
詳細に、詳細に。
そしてその姿形をブレることなく、心中に保持し続けるんだ。
できるだけ、長く。
結構、難しいぜ。
思考ってのは、よほど訓練されていねぇと、一点集中は難しい。
すぐに「あ、明日ノート買わなきゃいけないんだった」とか昼間かわした友人との会話、
さっき見たテレビのワンシーンなど、次から次へと雑念が湧いてくる。
そして関係なく次から次へと湧く思考をとことん排除していくんだ。
ちなみにオレさま、この訓練はすでに8年目となるから我ながらビックリだ。
で、そうやって心中に保持している間が、「魂が沈潜している」ことになる。
(魂と記憶の関係については面倒なので割愛する。)
すると、
唐突にさまざまなことが分かる瞬間が来る。
そういうものなのだ。
「目」という認識器官がたとえばピーマンを見たときら瞬時に脳裏に「緑色の物体」のカタチの像を結ぶだろ?
そこにはなんも意識的判断はないはずだ。
それと同じだ。
分かるときは意識するまでもなく「わかる」。
この行はまた、特殊なシンボルを対象にやっていれば、そのシンボルが持つ効果を魂は受け取るし、草花で行っていれば、少しずつ対象の草花が分かりだす。
シュタイナーがイントゥイション(霊的合一)と呼ぶ最終段階の霊的認識にいたっていれば、一瞬にして、対象物の秘密なんてもはやないがごとく「すべてわかる」。
(引用:)
(ここまで)
認識の多様なレベルについて―霊視から霊聴へ
上記では、霊的合一の認識まで語っているが、もちろんおれの行っていたのは、三段階ある中の最初のImagination認識(霊視)だ。
で、これが深化すると、
Inspiration認識(霊聴、霊的読解)に至る。
カントの認識論哲学でもそうなんだが、我々は対象それ自体を「分かる」ことは決してないとされる。
どういうことだろう。
簡単に解説してみる。
カントに言わせると、我々は「ありのままの物事」について、何も知りえないという。
そこを彼は「対象が認識に従う」と表現した。
たとえば、目の前に石ころがある。まず我々の感性は、目の前の石に対して、「石がある」と感覚的に受け取る。
この段階ではまだ認識には至っていない。
そのあと、悟性が概念的に分類し、「これは石だ」と分類する。
悟性が石を質・量・関係・様態の4つの観点から分類する。
そうしてようやく「これは石だ」と認識に至る。
(時系列的に感性を先に書いたけど、
実際は感性と悟性の共同)
つまり認識された対象は、このとき生まれた「認識」に基づいて存在しているにすぎないのだ。
なんか卵が先か、の話みたいだが、とりあえず古典的な認識論ではそういうことになってる。
神秘学的には、そうではないんだ。
認識される対象と彼我の別を無くす。
ここまで到れると考えられている。
対象それ自体になる。
一体化になれると考えられる。
まぁだから神人合一(霊的合一)の概念が成立するのだが。
ここは複雑なので別の機会に譲るが、ここに向かう途上で、霊聴という認識段階に我々は至る。
それは、対象それ自体が語りかける、という段階だ。
よく例に出すが、ミヒャエル・エンデのモモを読んだことはあるだろうか。そこにはルドルフ・シュタイナーの人智学の思想がふんだんに反映されている。
モモが黙って話を聴けば、大人たちは自然とどんどん答えが内側から溢れ出し、自分の本当の声、内なる知恵に触れる。
さらに天地に目と耳を傾ければ、空も星も語り、その秘密を開示する。
エンデはいう。
「本当に人の話を聞ける人はほとんどいない」と。
この本当に話を聴く、ということは、対象の声にならない声、「存在」の声を聴くことだ。
それを成すには、自分の中から一切の合理的判断、批判、そうした雑音を黙らせる必要がある。
何かと判断しがちな現代人には、なかなか難しい姿勢だな。
しかし、だ。
聖書はいう。
「口はひとつだが、目と耳は二つある」
ここには、とても大きな秘密が隠されているのだ。
霊的認識に関する話は奥深い。
今回も長くなったので、またの機会に話そう。
ま。そんな話だ。
編集後記
スピリチュアルな行法だとか、哲学とか。
でもって、ホントに機能する引き寄せの法則とか。
話したいことはたくさんあるのだが、なかなか忙しくなってしまっている。
そろそろ神秘学講座も復活させたいし、
その他の開きたいセミナー(おれの表の稼業との融合版)の準備とか。
スピリチュアルにも、社会的にも、経済的にも。
あらゆる面で、善く生きる。
そのために資するコトはどんどん提供するつもりだ。
それが神秘学を指導してくれた師との約束だし、40歳からのライフワークだ。
気張って行きたいと思う。
ま。そんな話だ。
メルマガ「魂の神秘学」は神秘家加藤夏樹が
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