叡智と真理を探究する者のために

信仰と宗教、そしてスピ

たまにはまともなコトも書かなアカンなと思う、はぐれキリスト教神秘主義情熱系薔薇十字派(なんだそれw)のオレさまです。



さて。最近、メールでキリスト教への造詣の深いコと話していたので、そこからなんとなく記事にしてみる。



日本人の感覚からすると、キリスト教やイスラム教といった一神教を信仰する人々の「過激さ」というものが理解しにくいはずだ。とくに「信者」と自意識がなくとも、生活習慣の中に神道や仏教が浸透しているので、とりたてて「私は神にこの命を捧げている!」的なノリがわからないことだろう。ましてや神道などは、教典もなく、必然的に「布教」という機能を内包していないのだ。




布教しないから平和的で、不況するから攻撃的であったり、過度に厳密な規律を持つ形態になった、というつもりもねぇけど。



ここで問題とするのは、「信仰」だ。



「宗教」とは極端な話、信仰を明文化し、ヒトの活動のために体系したものに過ぎない。どこまでいっても、生み出したのは「ヒト」だ。それは世界を理解するためのフィルターとしての神話であり、生活規範である。観念体系であったり、そこから生まれる教義や組織である。



一方、信仰は、仰ぎ、信じる―という言葉を使うように、超越的な「なにか」を仰ぎ敬い、証拠も何も必要としないで信じることだ。単純に言えば、畏敬の念に他ならない。



つまるところ、最初に「超越的ななにか」を感じ、信じた心がある。そしてその「超越的ななにか」を理解するために言語化された体系が興り、それが宗教と呼ばれる。早い話、たとえばこの世界を説明するにあたり物理学者は物理学で語るだろう。政治学者は政治学で語る。詩人は詩で美しく語ることだろう。それぞれが世界を見つめるフィルターは異なり、理解するための言語表現も異なる。だが、物理学者、政治学者、詩人が互いを「おまえは間違っている!」と罵りあうだろうか。あまつさえ、殺しあうだろうか?



無論、そんなバカげたことはない。もしそんな事件が起これば、人々は「はぁ?? バカじゃねぇのか?」と思うだろう。ところが、「宗教」とカテゴライズされているだけで、歴史を見るとわかるように、人々は互いを間違っていると考え、論争し、布教し、聖戦となってきたのである。何教であれ、みな「超越的ななにか」をそれぞれの観念で感じ取り、信じているというのにである。



日本人は太陽を見て「タイヨウ」と発音する。アメリカ人は「サン」だ。「サンじゃない!タイヨウだ、ヴォケ!」と言って争いに発展などしない。日本語と英語。異なる言語なのだから、違って当たり前。そのようなことが、こと宗教では認めることが難しい。



なぜこうも、この分野に限っては、認め合うことが難しいかは、オレさまはうまく説明はつけられん。ヒトの愚かさだというのは簡単だが、やはり、簡単すぎる。だが、「道」は幾つもあることくらい、ほんとに先を歩く者は当然、分かっているのだ。



たとえば、よくここで触れる神秘家ダスカロス。本人はギリシア正教の司祭だかなんだかも勤めていたという。(そして過去世ではあのオリゲネスだったというからビックリだが) そうした立場に居ながら、彼はトルコでもサークル(真理探究の勉強会)を持っていたが、そのときはイスラムに合わせてコーランを用いて生徒を指導していたという。ギリシア正教を奉じる彼が、である。キリストを愛し、その生涯で幾度もキリストと合一していた彼が、だ。熱狂的な信者よりも、理性的な無神論者の方が神に近い、と口癖にように言っていたダスカロスらしくもあるが。彼は聖書と同じようにコーランからも豊かな霊的真理を抽出し、語ることができた。だからこそイスラム教徒も熱心に学んでいた。



道は決して一つではないこと。大切なのは信仰であって宗教ではない。超越的な存在を感じ、信じる心。この心があるからヒトは謙虚になり、静かに真理を追い求める道を歩み始める。天を見上げ、私は誰なんだろう?と問いかけ、本当に生き始めることになるのだ。



翻っていま、日本では<スピリチュアル>が流行っている。ヒーリングだなんだと一大産業だ。昨今のスピ業界にいるヤシらの多くは、今更古びた宗教にこだわり、信じているのをバカにする向きもあるだろう。すべては愛、宗教に拘泥するのは古い、と。



だが、ヒーリング、リーディング、チャネリングなどのスピリチュアルな“スキル”ばかりが隆盛しており、肝心な<信仰>の部分、いわゆる人間を霊的な存在であらしめる心の部分が事実上、放棄されている。この部分なくして、なぜ霊的に「覚醒」し、霊的に進化し、ましてや「昇天」(アセンション)だなんだと言えるのだろうか。枝葉末節のスキルばかりがもちはやされ、肝心な点が注目されていないように思う。オレさまには、その感覚が、わからねぇ。



と、いつでも現代のスピ業界にぼやいても始まらないので、最後はなんちゃってキリスト教神秘主義者らしく、ぼやくかわりに聖書にスピ業界へ代言してもらおう。




1:たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。

2:たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。

3:全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。

4:愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。

5:礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。

6:不義を喜ばず、真実を喜ぶ。

7:すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

8:愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、

9:わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。

10:完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。

11:幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。

12:わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。

13:それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。


コリントの信徒への手紙一 / 13章 1~13(新共同訳)



・・・13にて宗教が残るのではなく、「信仰」が残るといった最後の一節・・・。その意味を考えていきたいものだ。



ま。そんな話だ。

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4.基礎的内省の実践
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  • ポチ { とっても共感します。 キリスト教ではキリストに似る、であったり創造を完成させることがゴールですが、キリストは創造を完成させるために受肉と贖罪とその後の継続的な働きかけを行い、創造の完成は「(自我の束を含む)この社会」を指してるわけなので、社会運動に参画せざるを得ない。 それをキリスト教で一番端的に表現しているのがプロテスタントなんだろうと思います。 アメリカは理想と現実の狭間で矛盾だらね。でも彼らはだからといって理想を捨てることはありません。 }
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