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カルマって気軽に解除できたらしい。(藁

ランキングなんてものに参加すると、妙にマメに「記事、更新しないといけねぇのか・・・?(汗」ってなプレッシャーに襲われるチキンなブロガーの皆さまこんばんわ。そんなチキンの一人のオレさまですが、ぽまいらはいかがブログとマンションの更新にビクビクしていやがりますか。





さて。ぽまいら、カルマを解除するワークとかいうのがあるようなのを知っていたか? なかには「全カルマ解除」とかいう、キリストの御わざ的なすげぇ響きのものもあるようだが・・・。




だいぶ前にどっかで「そんなことを施す素卑利恥亜流なワザがあるとかないとか」と聞いて、「なんだよ、それ。ほんとにあるならオレさまこそ受けてぇもんだぜ。はっはっ(藁」なんて藁って聞き流していたんだが。




・・・・ほんとに、そんな大それたことをやってるヤシらっていたんだ・・・。




あー。さて。




とりあえず、カルマ。今風に「原因の結果の法則」ともいうな。この名称がわかりやすくていいんだが。要は、為した行為の結果は自分で受ける、ということだ。いいも悪いもない。石を上に放り投げれば、アタマに当たる。毎日タバコ吸ってりゃなんらかの病気にはなる。その「結果」は、転生をまたがってでもやってくるから、法則として認知しにくいだけだ。




こう書いてしまうとシンプルだが、もちろん、その働きの実際は非常に多様なファクターが絡み合うので、把握しにくい。シュタイナーやダスカロスといった一流の神秘家たちでさえ、「もっとも神秘的で深い領域」というほどだ。




だが、ひとつだけ確実に分かっているのは、この宇宙を貫く、神の意志ともいうべき「神聖なる計画」を完遂させるために働く法則のひとつだ。つまり、カルマは単に物理的に働くにとどまらず―実際物理法則もまたカルマの法則の三次元なあらわれだ―、霊的にも働き、その方向性は「神へと向かう進化」と同じものだ。そう、人はカルマの法則によって霊的に進化していく。



で、だ。ヒーリングの分野ともからんでくるが、このカルマの「悪い結果」が来るとわかっていれば、それを避けたいと思うのは、人の気持ちというものだろう。石を上に放り投げてしまった。このままでは、アタマに当たる。当たる前に、自分の愚行に気づけば、もちろん避けられる。



それがキリスト教で言うところの「悔い改め」というものだ。義人がいなくなり、滅ぼされそうになった町が結局滅びなかった、という話が聖書にあるが、それは辛い結果として現れる「カルマでも避けられる」ということを示している。



また、カルマの返済という自分の「負債」がない霊的に優れたがヒーリングを施すとき、「スピリチュアル・ヒーリング」として相手のカルマを引き受けることも許されている。それは、愛の表現だからだ。ゆえに、このときヒーラーは、大きな負債も愛の行為として受け取るならば、随分軽減して受け取ることができる。



残りは、「キリスト」が担う。ダスカロスなんかは経験的に、十分の一程度になるといっていたな。まぁ、この数値的把握は難しいので、とにかく軽く受け取ることが可能なのだろう。

(※世の中、スピリチュアル・ヒーリングを謳っているものは多々あるが、ほとんどはサイキック・ヒーリングだ。その違いはまた今度)




もっとも、そんなことができるのはもうマスターと呼ばれるに値するヤシらくらいだ。またさらに言えば、育ちきってしまい、もう肩代わりもできないし、いかなる理由があっても「本人が受け取らねばならない」という場合もある。そのときは、たとえば一切のヒーリングも効果を発揮しない。たとえ悪性のガンの腫瘍を消滅させられるほどの技術をもったヒーラーでも、カルマが許さなければ、カスリ傷一つ癒せない、というほど厳格なものだ。




このようなカルマの法則。たとえ厳しくとも、「蒔いたタネは自分で刈り取らねばならない」のはあくまでも自分のためだ。他者にできることは限られているし、厳格な制限がある。だというのに、である。そのへんのスピリチュアル・カウンセラーとやらが軽々しく解除できるようなものではない。



ましてやダスカロスに限らず、「カルマの肩代わり」をしたときはたとえ軽減されても受け取ることにはかわりない。命は落とさなくても入院、手術ということは多々ある。インドの著名なヨギらも「ヒーリング」のために命を短くした、というのはよく聞くところだ。




本人はいたって元気でヘラヘラしていながら、「あなたのカルマ、解除しまっせ! でも、ほんとのところはちゃんとあなたがするんですよ! 好転反応には耐えてください!」的なノリでできるわけではない。つか、できてたまるか、アホンダラ!というのが正直なところだぜ。



ましてや、それでカネを取るとは何事よ。この時点で愛の行為でもなんでもねぇ。カルマの解除どころか、肩代わりですらない。はっきりいって、反吐が出るビジネスだぜ。




と、とうとうと文句を書いてるが、「スピリチュアル」なもんの批判ってのは、結構むずいな。



いまのスピを「現実逃避だ」なんだと批判するのはたやすい。実際、そうなのだろう。だが、どうせ批判するのなら、たとえ古臭くても、歴史を経た「神秘学」の視点から批判しておこうとは思う。いまのスピビジネスは、理屈だけは通しているように見えるものが多々ある。



精神世界に興味を持つヤシらがひっかかるのもわかる。だからこそ、単に批判するだけじゃ、「あなたは精神世界のことをよく知らないから否定するのよ」と感じられてしまう。ならば、「神秘学」の視点から批判しておこうじゃねぇか、と思うわけだ。



「アチューンメントでヒーラー」



ふざけるな!といいたいのも多い。だったら、ほんとの「アチューンメント」ってのはどういうもんで、いかなるときに神秘家は古来用いてきたものか、ということを示したほうがいいだろうと思うわけだ。



それで今回の槍玉にあげられたのは、カルマを解除する、というスピなワークという話だっただけでさ。



玉石混合の黎明期――そう、分かっていても、ため息が出るものが本当に多い。



ま。そんな話だ。

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2.理性で、潜在意識という畑を耕せ!
3.瞑想と内省との違い
4.基礎的内省の実践
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【ヒーリング編】
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2.エーテルの機能について1
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  • User Avatar ポチ さんより(21/10/02)
    ありがとうございます。 >基本的に「視覚的イメージ」を形成し、 >観察することに集中するんだよ。 >その結果、 >色んな崇高な魂の衝動や意味がわきあがってくる。 観察への集中、確かにここは欠けてるようです。 また、その結果得られた衝動や意味も、 祈る時は捨てて観察に集中するようにしてみます。 ありがとうございました。
    » ルドルフ・シュタイナーの薔薇十字瞑想について
  • User Avatar 加藤 夏樹 さんより(21/10/01)
    ポチ ども、夏樹です。 多分だけど、意味をイメージしすぎているんじゃないかな。 植物の光を求める衝動をキリストの父なる神への衝動にかさねて7輪の薔薇をイメージする、 十字架はもちろん贖罪の罪=私の罪で託して背負い、 十字架と薔薇の間にある私を含めた現存在の全体をイメージしてるのですが何かが違う気がいつもしてます。 とくにこのあたり。 こういう崇高なイメージは結果湧いてくるものであって、 視覚化においては 基本的に「視覚的イメージ」を形成し、 観察することに集中するんだよ。 その結果、 色んな崇高な魂の衝動や意味がわきあがってくる。 最初からそういうイメージをもって 挑むもんでもないんだ。 今度は映画を観るように 視覚的イメージだけに集中してみなよ。
    » ルドルフ・シュタイナーの薔薇十字瞑想について
  • User Avatar ポチ さんより(21/10/01)
    なつきさん こんばんは 薔薇十字の瞑想の時の最後の薔薇十字の表象の時に、上手くいきません。 植物の光を求める衝動をキリストの父なる神への衝動にかさねて7輪の薔薇をイメージする、 十字架はもちろん贖罪の罪=私の罪で託して背負い、 十字架と薔薇の間にある私を含めた現存在の全体をイメージしてるのですが何かが違う気がいつもしてます。 どこがダメだと思いますか?
    » ルドルフ・シュタイナーの薔薇十字瞑想について
  • User Avatar 加藤 夏樹 さんより(21/09/17)
    4年目さ。
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